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下鴨神社「京のいけばな展」、銀閣寺庭園、イリュージョンの文化、山水河原者、苔のある風景、天龍寺庭園・・・
▲世界文化遺産・下鴨神社「糺の森」

2011年11月上旬、久しぶりに京都を訪ねてみたら、第26回国民文化祭が開催されていた
急きょ、巡るコースを変更し、下鴨神社の「京のいけばな展」に向かった
「いけばな」は、仏前に花を供える「供華(くげ)」に始まり、約600年の歴史をもつ伝統文化だ
京都には、いけばなの流派が35もあるという
神聖な世界文化遺産を借景に展示された「いけはな展」・・・
どこから眺めても絵になる催しだった

いけばなのルーツ
いけばなが誕生するのは室町時代・・・
そのルーツの一つは、仏様に供えられる花・供花(くげ)である
仏前に花や香などを供え、飾る方法は仏教伝来とともに伝えられた

もう一つは、神前に常磐木を捧げ、そこに神が依り来ることを願った依代
今日でも榊の枝でお祓いしたり、お正月の門松なども一種の依代
樹木には精霊・神が宿ると信じられ、祈りや願いとともに災厄をはらい、清め、鎮めるものとされた
パンフレットには・・・
大切に人を迎える「もてなしの花」、想いを表現する「創造の花」
心を見つめる「静寂の花」、人を繋ぐ「絆の花」
大自然や生命を尊ぶ「祈りの花」・・・それらすべてが「いけばな」だと記されていた

いけばなの代表的なスタイル
立華(りっか)・・・花を立てて祈りを捧げたいけばなの最古の形。しんを中心に立てるたて花から発展し、役どころを担う七つの要素(道具、役枝)で構成され、江戸時代には九つ道具へと発展した。

生花(しょうか)・・・江戸時代に成立したいけばの様式の一つで、いけばなの基本的スタイルとして受け継がれてきた。
自由花・・・タブーや制約の少ない自由で個性的ないけばな、創造的ないけばな
上の作品は、秋が深まると草木の葉や実が赤と黄色に色づく「錦秋」を表現しているのだろうか
「たくさんの花を華やかにいける」・・・そんな多くの種類をいける「いけばな」が大半であった
生ける季節は同じでも、人の感性は十人十色・・・「美の多様性」を感じる

いけばなの作品展覧会「花展」は、いつ頃開催されるのだろうか
花材が豊富な春と秋に集中して開かれるという
いけばなの歴史概観

室町時代には、床や書院に瓶花を置いて鑑賞することが普及した
この頃は草木の自然の姿のままに挿した「なげいれ花」が主であった
15世紀頃には、七夕の催しに花を立てることが盛んになり、その名手が池坊専慶である

たて花は、2〜3本の草木からなるシンプルないけばなで、
主となる花材を中心に立てることを重視し、従となる花材を添える構成になっている
銀閣寺・東山文化を築いた義政は、いけばなと茶の道の発展に大きな役割を果たした

17世紀末になると、一般住宅にも床の間が普及し、手軽な「なげいれ花」が人気となる
スター的存在であった二代池坊専好の活躍を機に立花が大流行した
18世紀中頃には、いけばなは町人の遊芸として大衆化していった
その頃から池坊などの流派が勃興した

江戸時代後期には、煎茶のサロンとその席にいけられた瓶花が、
江戸の文人たちに好まれ、文人花として発展
近代には、女性教育にも取り入れられ、いけばなは日常生活に定着していった
花だけでなく、古木や松、竹などを使った作品もある
ちなみに、いけばなの本を開いてみると・・・
竹製のザルやビクに、野の花を生けた写真があった・・・釣り師が心動かされる生け花もある
▲参考:秋田市金足の国重要文化財「三浦家住宅」内の「いけばな」
さしずめ秋田なら、茅葺民家を借景に「農の生け花展」をやればおもしろそうだ
35の「いけばな」を順番に鑑賞していくと、
最後に参加者が無料で世界遺産に生ける「こころの願い花」というコーナーがあった
短冊に「家内安全、健康長寿」と書いて吊るし、さらにその想い、願いを花に託して生ける

いつもよりご利益数百倍の感じがする神聖な催しだった
いずれにしても「いけばな(華道)」文化のベースは、やはり自然である
現代のいけばなは、自然と人間をつなぐものとして植物をとらえようとする動きへと発展しているという

結論的に言えば、日本のいけばなは、「自然と人間と文化」の一つと言えそうである
▲葵の庭(カリンの庭)

神前にお供え物を調理する社殿「大炊殿(おおいどの)」の庭には双葉葵の自生する「葵の庭」がある
この庭には、カリンやヌルデ、クチナシ、カツラ、ヤマウコギなどの薬草木も栽培されている
こうした薬草木の庭も実用的で美しい
▲邦楽の祭典(京都会館第一ホール)

京都会館では、全国から参加した27の邦楽演奏が行われていた
秋田県三曲連盟による民謡組曲「AKITA」も演奏された
民謡王国秋田にふさわしく、あめ売り節・おばこ節・おこさ節・ドンパン節調の大合奏曲である
河原者がつくった庭園・・・銀閣寺
▲銀閣寺(慈照寺、世界文化遺産)

おかしなもので、学生時代は銀閣寺周辺を何度も歩きながら、
「拝観料を払う価値はない」と勝手に決めつけ、一度も拝観したことがなかった
思えば、わずか二十代で人生の「わび・さび」を理解できるはずもない

今回は、修学旅行以来二度目の拝観・・・
東山を借景にした苔生す庭園は、さすがに共鳴するものがあった

水、草木、石、苔で作られた庭園のモデルは、深山幽谷の渓谷美そのもの
言わば山釣りのフィールドである原始庭園をモデルにしている
日本文化の原点は、やはり「自然」である
▲銀沙灘(ぎんしゃだん) ▲向月台(こうげつだい)

白い砂を盛った平面に縞模様が走る銀沙灘(ぎんしゃだん)
池の波紋を表しているとのことだが、ちょっと理解に苦しむ
砂を盛った円錐形の上を切り取ったような向月台・・・これも不思議なオブジェにしかみえない

星と月が輝く夜であれば、どういうふうに見えるのだろうか
薄明りを浴びて立体的に広がる銀沙灘と向月台を眺めれば、
深山幽谷の夢幻・幽玄の世界を見るような錯覚に陥るかもしれない
イリュージョン(錯覚)の文化

日高敏隆さんは、昆虫や哺乳類など幅広い生き物を対象に研究してきた動物行動学者で、
日本動物行動学会の生みの親でもある
彼は、人間も動物もイリュージョン(錯覚)なしに世界は見えないという

例えば過去のイリュージョンは・・・
 地球が平面であった時代、人々はそのイリュージョンの上に地球を認識していた。それで不自由なく生きてきた。また、地球は世界の中心であり、地球の周りを太陽が回っていると錯覚していた。その後、コペルニクスが地動説を発表すると、当時の人々は恐ろしいイリュージョンだと思ったに違いない。

 変化したのは地球でも太陽でもなく、人間の認識とそれによってつくられたイリュージョンの世界である。人間もイリュージョンなしに世界は認識できない。これは学者も同じ。新しいイリュージョンをつくる。次の人が、それを壊してまた新しいイリュージョンをつくっているだけ。

 「世界は一つ」と言うけれど、実は、動物の数だけ世界はある。

 錯覚と言えば、神や仏もその最たるものであろう。ならば、その神や仏をベースに造り上げた寺や神社、庭園といった文化遺産は、イリュージョンの文化と言えるかもしれない。
この庭園は、巨石や大木を巧みに操る「河原者」の「善阿弥」が工事を担当した
善阿弥の死後、息子の小四郎、孫の又四郎も銀閣寺庭園の仕事を引き継いだ

作庭家の出自は「河原者(河原乞食・河原人)」

現在の河原町は、文字通り河原だった
その河原に居住していた人々を河原者と呼んだ
彼らは、死んだ牛馬の葬送、解体、皮の処理を河原で行っていた

また井戸の修理や井戸掘り、庭園をつくるなど一種の土木工事にも携わっていた
そのうち作庭に従事した河原者を、「山水河原者(せんずいかわらもの)」と呼んだ
中世以降、京都の石庭の多くは「山水河原者」の作だと言われている

五木寛之氏の「百寺巡礼第三巻」の銀閣寺の項には・・・

「義政は奇妙なことに低い身分の者たちでも差別せず、偏見をもたずに河原者たちを優遇したらしい・・・。義政の絶望的な孤独と、世間から差別され肩身の狭い思いで日々過ごした河原者たちの孤独とが、庭という空間において、一瞬、共鳴しあったのかもしれない
銀閣寺の庭園は、苔寺(西芳寺)の庭園を模して造られたと言われるだけあって「苔」が素晴らしい
園内はもちろん、山の斜面まで緑の苔に覆われている

苔のある風景は、古くから古色、永劫、森厳、静寂、隠逸、孤独といった情緒を象徴するものとされ、
日本人の「わび」「さび」の思想や禅の心と深くかかわってきた
▲白神山地大川支流大滝又沢

沢歩きで最も心惹かれる風景は、清冽な流れと瑞々しい苔の群れである
森の暗い林床や滝まわり、樹齢を重ねた巨木に着生した苔の緑は、清楚で美しい

「苔の衣」「苔の袂」「苔の袖」は、隠者や僧侶の衣服を表す言葉で、世捨て人の境遇を表現している
また「苔の庵」は、隠遁者が住む粗末な住居を、「苔の岩戸」は、行をつむ岩窟を表している
こうした苔と日本人の深いかかわりは、何となく山釣りの文化と共通するものを感じる
▲東山から銀閣寺庭園を望む

東山から銀閣寺の全景を俯瞰すれば、全体の面積が意外に小さいことに気付く
その小さな空間に「わび・さび」の別天地を凝縮させている点に秀逸さを感じる
正面奥に見える小高い山は吉田山(123m)である
禅僧・無窓疎石がつくった庭園・・・天龍寺
▲天龍寺(世界文化遺産)のトレードマーク「達磨(だるま)図」

天龍寺の玄関にある達磨(だるま)は、禅宗の開祖とされる人物
天龍寺の庭園は、無窓疎石の作庭として有名である
彼は、銀閣寺がお手本とした苔寺(西芳寺、世界文化遺産)も設計している

無窓疎石は、禅僧にしては珍しく庭園デザイナーでもあった
▲嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園「曹源池庭園」

水上勉と天龍寺
 学生時代、「雁の寺」を読んで以来、熱烈な水上勉ファンになったことがあった。彼は、日本海側の福井県出身で、14歳〜19歳まで、天龍寺派のお寺の小僧をしていた。ゆえに本山天龍寺へ用事があってよく出掛けていたという。彼は、こうしたお寺の小僧時代の経験を生かして書いた小説「雁の寺」で直木賞を受賞している。

 彼は「天龍寺幻想」で次のように記している
 「いま本山の風景一つを思い浮かべても少年時代にかさなって格別の思いである・・・仏弟子として、天龍寺派の小僧づとめをしたなら、当然、今日は同派の僧侶として生きていなければならないのに、こっちの至らなさで脱落したのだ。・・・

 龍は禅の護神だということである。護神が天に向かって登る、この姿には、あの法堂の天井の龍の絵もかさなってつきものの巻雲が荒々しく想像されてくる。・・・誰もこの世で龍をみたことがないだろう。その怪物の名を冠しているのだ。」
▲「龍門の滝」の石組
池の山際に石を組んで渓谷を現し、渓流が池に落ちる滝口に、
巨岩を二段に立てて滝の落ちる様にかたどり、これに鯉魚石を配して、
中国の故事にある「登龍門」の由来である鯉が、三段の滝を登って龍に化す様を現している

嵐山や亀山を借景にした庭園は、大自然のなかにある
その大自然のなかから龍が天に向かっているのを表現しているという・・・まさに天龍寺
▲曹源池庭園
 池の前庭には、白い砂が敷かれ、池の波紋を表す縞模様が施されている。池の周囲にある石橋、岩島、滝石は、中国の水墨画や渓谷の美に学んだかのように、石を巧みに組むことで、その心象風景を表現している。こうした疎石の石組は、枯山水や園池護岸の発達を大きく促したとされる。

曹源池庭園を施工したのも河原者

「こんな無数の石を、国師自身がもっこをかついで、運ばれたものでもあるまい。
作庭の際にはあらかじめ図面というものがあって、誰かに石や木を運ばせたのだろう。
物の本によると、京には阿弥という庭師のむれがいて、卑しい人々だったともいう

国師のさしずで、人々が汗だくで、石を置き、置き換えたりして、
長い日数をかけて、完成されたのに相違ない・・・

夢窓という人の本姿は、やはり晩年にあって、石と木と水が、みごとな配置をみせ、
数百年の歳月を経ても生々する天龍寺庭園にあるというしかないと思う。」(「天龍寺幻想」、水上勉)
曹源池の水は、大堰川から注がれている
庭を蛇行して流れる大堰川は、自然の小渓流に近く、心が洗われるような風景である
川沿いの木々は、渓畔林のように配置され、岸に点在する岩には苔と植物がびっしり生えている

▲鴨川と水辺に遊ぶカモ
▲熊野神社・・・天台宗系本山派修験道の守護神として崇敬された神社 ▲南禅寺石碑「この門を 入れば 凉風 おのづから」
▲樹齢400年のムクロジ ▲本山修験道の総本山「聖護院」 ▲平安神宮・・・映画「源氏物語 千年の謎」のヒット祈願が行われた神社

 参 考 文 献
「第26回国民文化祭・京都2011 公式ガイドブック」(京都府)
「百寺巡礼 第三巻京都T」(五木寛之著、講談社)
「京都・観光文化検定試験 公式テキストブック」(京都府商工会議所、淡交社)
「動物と人間の世界認識」(日高敏隆著、筑摩書房)
「古寺巡礼京都4天龍寺」(水上勉ほか、淡交社)
「生け花入門」(主婦の友社)

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