東北の元気回復プロジェクトその3 山釣り紀行TOP


東北クマソ発言、日本書紀、ブナ帯文化、マタギ、ブナ帯の四季、縄文遺跡群・伊勢堂岱遺跡、白神山地・・・
▲藤里町「岳岱自然観察教育林」 ▲北秋田市「伊勢堂岱遺跡」から白神山地・藤里駒ヶ岳を望む

東北クマソ発言
昭和63年、当時サントリー社長だった佐治敬三氏は、

「仙台遷都などアホなことを考えている人がおるそうやけど・・・
東北はクマソの産地。文化程度も極めて低い」と発言・・・大きな反感を買ったことがあった
ちなみに、「クマソ(九州南部)」ではなく「エミシ(東北)」の間違いだと思うが・・・

こうした東北を蔑視する考え方は、どこからくるのだろうか・・・
▲仙北マタギの森・和賀山塊「日本一のブナ」・・・幹回り8.6m、 推定樹齢700年以上 ▲岩手県沢内マタギの森・・・和賀川流域「ブナのモンスター」 ▲阿仁・比立内マタギの森・・・太平山系白子森のブナ
▲白神山地大川「マタギ道」・・・かつては、この終点にマタギ小屋があった ▲青森県目屋マタギの森「白神のマザーツリー」、推定樹齢400年 ▲東成瀬マタギの森・・・ブナと兄弟関係にあるミズナラの巨木

「日本書紀」(659年)の記述
遣唐使が中国にエミシを連れて行った時の会話・・・

天子 「エミシの国はいずれの方にあるか」
遣唐使 「東北にある」
天子 「エミシは何種類あるか」
遣唐使 「三種ある。遠方をツガル、アラエミシ、ニギエミシという。今回伴ってきたのはニギエミシ・・・」

天子 「エミシの国には五穀があるか」
遣唐使 「五穀はない。肉を食して生活している
天子 「エミシの国に家はあるか」
遣唐使 「無い。深山のなかで樹木の本に住んでいる

この日本書紀に記述されている内容は、考古学の進展で全てウソであることが判明している
三内丸山遺跡では、20棟以上の大型縦穴住居、食料保管庫、クリの栽培、
墓地、ゴミ捨て場、道路、祭りなど、縄文都市が形成されていた

つまり、日本書紀の記述は、朝廷に従わないエミシに対して、
五穀も家もなく、肉を食して木の下に眠る野蛮人と蔑視している物語
である
ちなみに、ツガルとアラエミシは朝廷に従わない民、従うエミシをニギエミシと区別していた

北東北三県は、いずれも朝廷に従わないエミシであった
果たして、エミシの文化は野蛮で低かったのか・・・

ブナ帯文化
▲マタギの森「ブナ」(北秋田市阿仁) ▲ブナの森から湧き出す名水(白神山地)

「ブナ帯文化」(梅原猛外、新思索社)
 福島原発事故は「文明災」と指摘した哲学者・梅原猛氏は、
 「第一章 日本の深層文化」
の項で、次のように記している

 「今まで東北は文化のはつるところ、雪に埋もれて生産力も低く、なんら見るべき文化をもたないところと考えられてきた。しかし私は、東北地方には縄文文化の遺跡がすばらしいことによっても、この東北地方こそ、かつて最も高いかつ豊かな狩猟採集文化、すなわち縄文文化の栄えたところであると考えた・・・

 私は、日本の文化を考えるとき、表層にある支配者の文化、すなわち稲作農耕民の文化以上に、この深層にある非稲作農耕民すなわち狩猟採集民の文化に注目しなくてはならないと考えてきたのである・・・

 縄文文化論を十分に展開するためには、照葉樹林よりブナ、ミズナラに代表される落葉広葉樹林・ブナ帯に注目すべきではないか・・・ブナ林は東日本に多く、それは縄文の遺跡のある所に多いというのである・・・哲学者としての私が関心をもつのは、そのブナ帯文化圏に生きる人間の世界観なのである・・・

 この恐るべき力を発揮する科学技術による自然支配あるいは自然破壊という人類の運命を食いとめるには、もういちど人類の文明をその根底から反省し、その文明の方向を転換しなければならない。その治療薬として、私は、日本に伝わる縄文文化の伝統がある程度の有効性をもつのではないかと思う・・・

 いったい近代文明はどこへ行くのだろうか。人間は自然を征服することによって、むしろ自分の生ける地盤を失ってしまうのではないか・・・今後も科学技術は人類に恩恵を与えるであろうが、それが果たしてすぐに人類の進歩と言いうるのであろうか。

 何が幸福か、何が不幸か、長い目で見るしか人類の運命はわからない。近代人が進歩という名でよんだ歴史は、ひょっとしたらそれはおおいなる破滅への道であったかもしれない。大きな自然の摂理のなかで生きる知恵を、人間は再び自分のものとしなければならない。

 日本文化の基層にあるブナ帯文化は、ただ物質文明の問題のみならず、それは同時に精神文明の問題なのである。その文明の問題を深く考えるとき、ブナ林の生死もけっして今後の人類の生死と無関係でないことがわかるであろう。」
▲ブナは、春に芽吹き・・・秋には落葉する。ブナ林の四季は、生と死の循環。

 ブナ帯文化圏に生きる人間の世界観

 「熊送りのことをアイヌではイヨマンテという・・・多くの動物はその肉を人間に与えることによって、人間の生命を養うのだ。わけても熊は最も大量のおいしい肉を人間に与える。いわば、熊は、人間の食物となるべき動物の代表者なのである。アイヌは熊によって動物を代表させて、動物の魂送りを熊送りによって代表させるわけなのである・・・

 イヨマンテの祭りの中心は熊を殺す儀式ではなく、殺した熊の魂を天に送る儀式にある・・・人間によって礼儀正しく天の国に送られた熊の魂は、天に帰って、人間によって与えられた手厚いもてなしのことを仲間に話すのである。仲間の熊もその話を聞いて、そういう良い待遇がなされるなら来年にも同じようにミヤンゲを持って人間の世界を訪れようと思うのである・・・そこには人間も動物も植物もすべて同じものであるという世界観が隠れているのである・・・

 落葉広葉樹林は、冬にはすっかり枯れた樹木が春になると芽をだし、それが鬱蒼とした緑の葉となり、そして実を付けて秋に落ちていく。一つの樹は一年の間に生死を繰り返すのである。

 太陽は東から出て西へ没する。古代人には、太陽は日々その日に死ぬと考えられているのである。一度死んだ太陽は再び翌日の朝、東から生き返る・・したがって一日一日が生と死の循環なのであり、一年一年も又生と死の循環なのである・・・

 古代人にとって円はただの円ではなく、円は生と死のシンボルなのである。又、柱はただの木ではなく、地上と天を結ぶものである。白木の柱を見て日本人は感動するが、その白木の柱が天と地を、つまり地上の世界と神の世界を媒介する聖なるものであった。地の霊は柱を使って天に昇り、また天にある霊は柱を伝わって地に降りる・・・

 人間の霊も又そのような循環の摂理に従って死の後に故郷である天に帰り、そして何時のときか又、その霊は再び地上に現れて子孫となって生まれ変わるのである。

 日本人はしかし、天と地の循環運動を、人間における死と生の循環にのみ限ろうとしなかった。祖先の霊は正月やお盆、お彼岸に子孫のもとにやってくるのである。その霊たちは子孫によって暖かく迎えられ、ある期間の間大切にあがめられ、又天に帰っていく。天と地との、神の世界と人間の世界との循環がたえず行われているのである。

 このような宇宙の摂理を循環と考える捉え方は、やはり旧石器時代に行われた考え方と考えざるを得ないのである。それは人間と動植物を全く区別しない同じものと考える世界観なのである。人間から世界を見るのではなく、世界の大きな循環の中で人間を見る世界観なのである」
ブナ帯の狩人・マタギ
▲ナタ目「熊取り、午後から雨降り」(阿仁マタギ) ▲ブナ帯のマタギ小屋(白神山地目屋マタギ) ▲山の神信仰(仙北マタギ)

ブナ帯の狩猟民(「滅びゆく森ブナ」工藤父母道編著、思索社)抜粋
 「マタギは、東北地方のブナ帯山間部に散在するマタギ集落に暮らし、ブナの森を猟場として、共同で主に大型獣であるクマ、カモシカ猟を行う専業的狩猟民であった

 マタギが、平野部の単なる鉄砲打ちと異なったのは、山の神を信仰し、山へ入ると里言葉を避け、独特の山言葉に切り替え、唱え事や呪言葉の秘事を持ち、厳しい戒律を守って、特有の猟法で集団狩猟した点にある。さらに彼らは、獲物は山の神の授かりものとし、定まった作法で解体儀礼を行い、その霊をなぐさめた

 統率者ともいえるシカリは・・・秘巻を持参し・・・マタギ小屋の山の神に供えて、朝、夕に拝んだ・・・守り本尊である秘巻には、日光派の゛山達根本之巻゛と、高野派の゛山達由来之事゛とがあり、縁起、秘法などが書かれていた。山でのマタギの生活は、山の神への祈りと、さまざまな禁忌、ケガレを払う際の潔斎などによって、常に律せられていた」
▲ブナ林と狩人の会「マタギサミット」
▲比立内山神社(1808年創立) ▲仙北マタギ(左)と最後の鷹匠・松原英俊さん(中央、山形県朝日村) ▲阿仁マタギの像(北秋田市阿仁)

マタギの世界 ブナの森の狩人(「ブナ帯文化」石川純一郎)抜粋

 「マタギは、日本民族の山棲みの伝統的な生活様式を色濃く伝承している人たちである・・・山棲みの生活様式を基調とした古代エミシの系譜につながるものといえよう・・・

 マタギ村の生活は四季にのっとっている。春は山菜採取、夏は農耕、秋は木の実やきのこ採取、冬は狩猟というのがおおまかながら基本的な生活パターンである・・・また、春から秋にかけて川漁をする。」
ブナ帯の四季・・・暮らしと文化
▲ブナ帯の恵み「山菜」 ▲山棲み人の現金収入源「ゼンマイ」

残雪と新緑の春

 残雪期の4月下旬〜5月上旬、白い雪の上の黒いクマは発見しやすい。マタギも堅雪で移動しやすい。マタギの伝統を継承する阿仁マタギや仙北マタギらは、越冬穴から出た直後の春グマ猟を行う。

 雪解けとブナの芽吹きが始まると、コダシを下げた山菜採りが森にどっと繰り出す。ブナ帯に暮らす人々にとっては、春先の野菜不足を補う貴重な゛山の野菜゛、ブナの恵みである。

 山菜のほとんどは自給用だが、近頃は直売所に旬の山菜が所狭しと並ぶ。山菜の中でもゼンマイは商品価値が高く、山棲み人たちにとって重要な現金収入源である。彼らは、ブナ谷のゼンマイ小屋や湯治場を基地に何日も泊まり込み、ゼンマイ採りに専念する。

 ゼンマイは胞子で増殖するから、必ず翌年のために何本かを残す。それだけではない。専用のゼンマイ採り小沢を3本以上持ち、毎年代えながら順次採取する。かつては、ゼンマイの綿毛もゼンマイ布に織って、暮らしに役立てていた。
▲マダの樹皮から命名された「マンダノ沢」 ▲マタギが放流したイワナの子孫

深緑の夏

 田植えが一段落し初夏を迎えると、タケノコや秋田フキ、マダ(シナノキ)の樹皮をはぐために森へ入る。かつては、マダの樹皮で糸をつむぎ、冬に囲炉裏の傍らでマダ布を織った。マタギは、狩猟だけではなく、川漁も得意とする。かつては、マタギ小屋をベースにイワナを釣り、温泉宿に卸す職漁師もいた。

 また、1828年「秋山紀行」(長野県栄村秋山郷)によると、秋田の旅マタギが草津温泉を市場に狩猟やイワナ漁を行っていた様子が詳細に記されている。旅マタギは、2〜3人の小集団で行われていた。人跡稀な奥地に狩り小屋を設け、一度に数百匹のイワナをとり、草津の湯治場に売っていた。

 旧田沢湖町玉川部落では、昭和10年頃まで、盆近くになると集団で大深沢や小和瀬川の源流へ出掛け、塩漬けのイワナを雑魚箱一杯に入れて下山、ただちに塩抜きをして、ベンケイに刺し燻製に仕上げると、実家への盆魚としていた。

 彼らは、イワナの漁場を拡大あるいは山の恩返しとして、釣り上げたイワナをヨドメの滝上に放流を繰り返した。今では、水がチョロチョロ流れる源流部までイワナの生息域が拡大している。そのお陰で「山釣り」という新たなスタイルも生まれた。

 ブナ帯の森は、薬用資源の宝庫で、薬用植物だけでも100種を超える。また、大きなホオノ葉は、ご飯ときな粉、ご飯と納豆を入れた「ほの葉まま」料理やキノコ類を包んで売った。大きな秋田フキは、二枚合わせて物を包むのに利用した。

 マムシ、サンショウウオ、イモリなどは、干したり、黒焼きにして強壮薬とした。川魚は、囲炉裏のベンケイに刺し燻製にして保存した。その際、ブナ帯の広葉樹は、燻製をつくる薪として重宝された。また、焚き火の材は、ブナ、ダケカンバ、オオバクロモジを利用した。マタギ小屋の骨組の材には、サワグルミを用いる。屋根と前後の壁は、サワグルミの樹皮を主に、チシマザサの葉を束ねたものを併用して使った。
▲ブナの老木に生えたトンビマイタケの群生(夏) ミズナラの大木に生えるマイタケ(秋)

豊穣の秋ブナの風倒木に生えるナメコ

 ブナの森は、キノコの宝庫。キノコ採りのプロは、8月上旬頃から山に入り、ブナの老木に大量発生するトンビマイタケ採りからスタートする。

 トンビマイタケを採りながら、ブナの森に頻繁に入り、キノコの王様・マイタケが発生する時期を読む。彼らにとってマイタケだけは別格で、゛見つけた゛とは言わず゛当たった゛という。採取したマイタケは、葉がついたままのオオバクロモジの枝でツトを作り、大株を壊さないように持ち帰った。

 9月〜11月、ブナの森では、マイタケ、ブナハリタケ、エゾハリタケ、シイタケ、ヤマブシタケ、マスタケ、ナラタケ、ムキタケ、ナメコなど、採りきれないほどのキノコが生える。

 木の実は、ヤマブドウ、サルナシ、アケビ、コクワ、マタタビ・・・かつては、飢饉の際の救荒食料として、ブナやヤマグリ、オニグルミ、トチノキ、ナラ類などの実が利用された。また、マタギたちは、よくトチの実でトチ餅をつくる。すぐに固くならないことから、猟の際の携帯食とした。
狩りの文化・・・阿仁マタギ ▲ケボカイの儀式 ▲クマの胆(い)

雪深い冬

 クマの冬眠は、11月中旬から4月下旬までの5ヶ月間。クマの肉が美味いのは、寒中の穴で獲れる3、4歳のクマ。次に春グマ狩りで獲ったクマだという。クマの胆は、漢方薬の中では、最高級品。効能は慢性の胃腸病、食中毒、疲労回復、二日酔いなど、万病に効く薬として取り引きされ、昔からマタギの貴重な収入源であった。

 阿仁マタギや戸沢マタギは、年間約4ヶ月、全国を股にかけてクマの胆の行商をしていた。特に根子集落のマタギは、昭和11年当時すでに、鑑札を取った売薬業者として行商していた。

 かつては、クマ以外にもカモシカ、サル、山ウサギ、テン、ムササビ、アナグマなどの獣を捕った。特にカモシカは、クマに次ぐ大型の獲物だった。肉が抜群の味で、毛皮は登山者やワラダ猟山林労働者の尻当て、衣類として利用され、角はカツオ釣りなどの擬似針として重用された。

 バンドリ(ムササビ)の旬は、11月から12月末。特に12月頃は、クロモジの芽を食べているので、その香りがして最高に美味いという。アナグマは、カモシカに次ぐ美味い肉とされ、マタギたちは、マミ汁と呼んだ。

 山ウサギも、サンショウやクロモジの香り高い木の芽をエサにしている寒中が旬。マタギは、ワラを円盤状に編んだワラダ(写真右)を使って山ウサギを獲った。山ウサギが潜んでいる所にワラダを投げると、その空を切る音を鷹の羽ばたきと間違え、恐怖で身動きできなくる。臆病で警戒心の強い性質を逆手にとった猟法である。

 ブナ帯の炭焼きは、冬の代表的な生業だった。炭焼きは、ブナ、ミズナラを伐り出し、一冬中、炭を焼いた。炭焼き用の木を伐採した跡には、焼畑を行い、アワ、ヒエを作っていた。かつて青森県西目屋村では、村のほとんどの者が炭焼きに従事し、「西目炭」は有名であった。

最後の鷹匠・・・野沢博美写真集
熊鷹文学碑 秋田では、明治から昭和にかけて、かなりの鷹匠がいた。鷹匠は、クマタカのヒナを捕獲、飼い慣らして、山ウサギやテン、タヌキなどの狩りをしてきた伝統猟法。

 狩りのシーズンともなれば、鷹を持って雪山を20km、時には40kmも歩く。「鷹匠の里」秋田県羽後町の「熊鷹文学碑」には、次のような一文が記されている。

 「草も木も鳥も魚も/人もけものも虫けらも/もとは一つなり/みな地球の子」(藤原審爾)

 この碑文は、鷹匠という生業を通して「人間と動植物を全く区別しない同じものと考える世界観」を高らかに歌っている。

 大正から昭和の初め頃、秋田県北秋田市阿仁打当のマタギ・松橋富治の生涯を描いた長編小説「邂逅の森」で直木賞を受賞した作家・熊谷龍也さんは・・・「かつて東北にも被差別部落は、あったはずたが、関西と違って自然に消滅した。これは狩人と近い人たちと生活していた東北の精神風土の凄いところだと思う。」と語ったのが印象に残っている。

 「ブナの森では、遥か縄文の昔から営々と生命の輪廻が繰り返され、鳥や獣ばかりか、人もまたブナの恵みに依存し続けてきた」(「母なる森・ブナ」工藤父母道記)

北海道・北東北の縄文遺跡群、伊勢堂岱遺跡
北海道・北東北の縄文遺跡群(「世界文化遺産提案書」抜粋)

 「北海道・北東北は特に豊かな自然に恵まれた地である。世界自然遺産白神山地は、地球上に残された最大級のブナ原生林を有し、太古の昔から変わらぬ自然が保全されている。このブナ原生林は縄文時代に形成されたとされ、それを母なる森としながら、日本列島の北の大地に、我が国の文明の扉を開いたと言うべき縄文文化が育まれた。

 縄文文化は・・・自然との共生のもと約1万年もの長きにわたり営まれた、高度に発達、成熟した定住的な、採集、狩猟、漁労文化であり、我が国の歴史の大半を占めるものである。ヨーロッパや大陸の先史文化と比較すると、本格的な農耕と牧畜を持たず、新石器時代の文化としてはきわめて特徴的な様相を呈している・・・

 我が国最大級の縄文集落跡である特別史跡三内丸山遺跡や大規模記念物である特別史跡大湯環状列石を始め、縄文文化の様相を今に伝える遺跡の宝庫である・・・

 北海道・北東北の縄文遺跡群は、我が国の歴史はもとより、人類史における狩猟採集社会の成熟した様相を顕著に物語るものであることから、人類共通の貴重な宝であり、世界文化遺産として未来に伝え、残すべきものである。」

 北海道・北東北縄文遺跡群の中に、秋田県では、鹿角市「大湯環状列石(特別史跡」と北秋田市「伊勢堂岱遺跡(史跡)」の二つが入っている。

▲国指定史跡「伊勢堂岱遺跡(いせどうたいいせき)

 伊勢堂岱遺跡は、縄文時代後期前半(4千年前頃)の環状列石をはじめ、多くのお墓や建物跡が見つかった。祭祀にかかわる遺物も数多く出土しており、「お墓」であると同時に「祭り」や「祈り」をとり行う大規模な葬祭の場であると考えられている。

 縄文時代の墓制や精神世界、社会構造を解明する上で大きな手がかりとなる遺跡である。遺跡の範囲は、台地全体に及び20haもの広がりを持つと推定される。平成20年12月15日には、「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として世界文化遺産暫定リストに登録された。(遺跡看板要約・北秋田市教育委員会)
 遺跡が発見された台地は、山並みの眺望の良さが際立っている。その景観から、「母なる森・ブナ」が生み出した文化であることが分かる。世界自然遺産「白神山地」の藤里駒ヶ岳(1,158m)や茶臼岳(1,086m)、烏帽子岳(1,133m)・・・古くから信仰の対象で、「白髭大神」が住む山・田代岳(1,178m)など・・・縄文人たちは、天と地とブナ帯の山々(神々)に向かって、畏敬と感謝、祭りと祈りを捧げたに違いない。
世界自然遺産・白神山地
▲世界自然遺産白神山地の核心部・・・追良瀬川源流部からブナの原生林と向白神岳を望む

 白神山地は、青森県西部から秋田県北西部にまたがる約13万haの広大な山域の総称である。このうち、原生的なブナ林約1万7千haが世界自然遺産に登録されている。白神山地の特徴は、奥が深く人跡稀な赤石川、追良瀬川、粕毛川などの原生流域が集中し、面的に連続したブナ原生林の面積が世界最大級で、ほぼ純林として分布している点である。

 ・・・こうしたブナ帯と呼ばれる地域には、狩猟採集を生業とした「マタギ」と呼ばれる人たちがいた。彼らは、自然に逆らわず、狩猟のほか、農業や炭焼き、キノコや山菜採り、川漁をしながら四季を通じてブナの恵みを享受してきた。山の神、田の神信仰や食と農から民俗文化に至るまで多様な文化を生み出し、代々受け継がれてきた。こうしたブナ帯の森に生きる生活・暮らしを総称して「ブナ帯文化」と呼んでいる

 世界遺産条約の特筆すべきことは、自然と文化を対立するものではなく、むしろお互いに補完しあう関係にあるとしている点である。これは、白神山麓に生きる人々のブナ帯文化とも共通するものがある。

 現在、日本の世界遺産は、自然遺産と文化遺産の二つに分かれているが、白神山地のブナ帯文化のように自然と文化は本来一体のものであり、複合遺産として登録すべきだという意見も少なくない。(「農業土木学会2003年3月号」、小講座「世界自然遺産」菅原徳蔵記より抜粋)
▲ブナの新緑と白神岳稜線を望む ▲白神山地最大の滝「白滝」 ▲残雪とブナの新緑

「北海道・北東北の縄文遺跡群」に代表される「縄文文化」を支えたものは、
恵み豊かな「ブナの森」である

現在、「ブナの森」は少なくなり、「滅びゆく森」などと形容されている
その希少な森が、約1万7千haの面的まとまりをもって残っているのが
「世界自然遺産・白神山地」である

白神山地は、わが国の文明の扉を開いたブナ帯の原風景が残る希少な森である

また、縄文以来、狩猟採集の文化を継承しているのが「ブナの森の狩人」と呼ばれる「マタギ」である
つまり、白神山地とマタギ、北海道・北東北の縄文遺跡群は、「ブナ帯文化」でつながっている
「千年先を見据えた文明論」のヒントは、ここに掲げた「ブナ帯文化」に隠されているように思う

原発事故が「文明災」だとすれば、
今こそ、「北海道・北東北の縄文遺跡群」を世界文化遺産に登録すべきだと思う
世界に冠たる「ブナ帯文化」で、「東北元気回復プロジェクト」の精神的礎になれば幸いである

キャッチフレーズは・・・「ブナ帯文化DE元気に!」

「自然に逆らっても勝てない」 「僕たちは、白神の力を信じている」

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