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菅江真澄と森吉山、森吉避難小屋と水、イワカガミ、チングルマ、ニッコウキスゲ、蝦夷の地名、マタギ言葉・・・
2012年7月中旬、イワナと遊び、花の百名山・森吉山に登った
あいにく晴れたのは、二日目だけであったが・・・
信仰の山・森吉山の象徴は、上の写真「冠岩(森吉神社のご神体)」である

江戸時代の紀行家・菅江真澄は、今から200年ほど前、森吉山に二回登っている
その際、モロビのきよめ火の風習や森吉大権現、大人・山人伝説などを記している
夏の定番・ニッコウキスゲは、咲き始めたばかり・・・見頃は、もう一週間後であろう
その代わり、6月下旬の花・イワカガミやチングルマの花園を見ることができた
ちなみに山と渓谷社の「花の百名山 登山ガイド」によれば、秋田の花の百名山は・・・

八幡平、和賀岳、焼石岳、栗駒山、田代岳、森吉山、秋田駒ヶ岳、鳥海山、神室山の9山
せめて、この9山は全て登ってみたいと思う
▲藪の小沢を下る ▲ショウキラン ▲雨の中、イワナ谷をめざして下る

2012年7月13日〜15日、5名のメンバーで森吉山系のイワナ谷をめざした
あいにく梅雨前線の影響で、予報はクルクル変わり、最悪の雨でスタート
標高700m地点左岸のブナの森にBCを構える
イワナ谷は、雨で茶褐色に濁り、お世辞にも清流と呼べるような状態ではなかった
ポイント毎にイワナは釣れるものの、8割ほどはリリースサイズであった
魚影は濃いが、サイズが小さい

7月中旬ともなれば、どこの沢であろうとイワナはスレてなかなか姿を現さなくなる
そんな夏でも数は釣れるのだから、春一番なら尺イワナが期待できるであろう
全体的に魚体は黒っぽく、斑点も鮮明なニッコウイワナ系である
腹部は鮮やかな柿色に染まり、源流部に居着くイワナの特徴を良く示していた
気になったのは、増水した際の水の色・・・

汚い泡を含んだ赤茶色の濁りにはまいった
それを見ているだけで、この沢を詰める遡行意欲は失せてしまった
早めにテン場に戻り、現地調達したイワナ、山菜、キノコの料理モードへ
イワナの刺身、アラの唐揚げ、ウスヒラタケとタケノコの味噌汁、アザミの茎のおひたし
ミズの塩昆布漬け、イワナの塩焼き・・・
▲ブナの深緑 ▲テン場近くの湧水

本流の赤茶けた濁流は料理に使えない
幸い、テン場近くに透明に澄んだ湧水(右上の写真)があった
コーヒーや料理はもちろん、汚れたコップをさっと洗うにも重宝した
▲イワナのアラの唐揚げ
▲ウスヒラタケの唐揚げ
▲ソーセージの唐揚げ ▲アザミの茎のおひたし

久々に焚き火を囲み熱燗で乾杯!
酔うほどに、たわいもない山釣り人生を延々と語り合う
酒1.8Lを飲み干し、ウイスキー一本を空に・・・

何時に寝たのか、記憶にないほど酩酊してしまった
反省は、サルでもできるのだが・・・
▲共生の美

二日目の朝5時頃、シャワーのような雨音で目が覚めた
九州北部では、7月11〜14日の大雨で死者・行方不明合わせて32名など甚大な被害が出た
気象庁では「平成24年7月九州北部豪雨」と命名したという

ここは無理をせず、一日早くBCを撤収・・・小沢を詰めて森吉避難小屋をめざすことにした
二日目は一転、真夏日のような快晴となった
重い荷を背負い、小沢を詰める・・・稜線近くの猛烈な笹藪には体力を倍以上奪われた
全員汗だくで登ること2時間半・・・登山道に出た瞬間、ガス欠状態で倒れこむ

最後の水場で汲んできた水とふりかけご飯でエネルギーを注入する
たった一杯の水、ふりかけだけの冷めたご飯・・・それでもしこたま美味い
▲様田登山道 ▲木の根道 ▲モミジカラマツソウ

菅江真澄と森吉山

菅江真澄が初めて森吉山に登ったのは1802年10月16日、阿仁町側の二ノ又から登り下りしている
「雪の秋田根」の冒頭には・・・

「(阿仁町)二の股の部落から、御岳詣でをしようと人に誘われて、森吉の山に登った。
ここがこの山の麓なので、分け入るのはたやすく、登山に都合が良かろうとかねてから思っていたので、
さすがに嬉しく、霜のおく山道をはるばると辿っていくと、朝日がほのかに射してきた。」

真澄は、信仰の山・森吉山に登ることをいかに楽しみにしていたかが分かる
また、3年後の1805年8月10日、案内人と二回目の森吉山登山ををしている
▲ハナニガナ

身を浄める「祓川」

「(二ノ又川上流)両滝の沢とかいうあたりに来て振り仰いで見ると、
峯にかかっていた白雲はすっかりはらわれ、晴れていた。
祓川という細い流れに、三尺ばかりの丸木の橋がわたしてあった。

ここでみそぎをするのであろう。・・・
昔は夏草を刈るために登る人でさえ、厳しい斎戒を守ったが、このごろになってからは、
軽く精進して参拝に登るようになった。

しかし、魚やウイキョウなど、匂うものを食い、女にも触れて、全く身を浄めていないものが近づくと、
神が嫌って、
たちまち谷が鳴り、峯に響き、空はかきくもって疾風が梢を鳴らして、
その人はどこかへ吹きさらしてしまうということがあった。」
 山伏修験道の山には、必ず「祓川」という地名が出てくる。その祓川に来ると、笹を折り、その葉に清き水をつけて身体にふりかけ、水垢離をとってから山に向かった。また、水の中を歩くことは、ケガレを清める一つの方法であった。沢登りは、心の洗濯ともいわれるが、それはケガレを祓う快感に近いように思う。

 山の神を信仰するマタギは、山は神の領域であり、様々なタブーやケガレを払う潔斎などによって律されてきた。そのタブーを破った者は、下山させられたり、水垢離、雪垢離を取らされ、時には裸で深い雪の中に潜らされた。これは、真澄が「全く浄めていない者が近づくと、神が嫌う」という考え方と同じであることが分かる。
▲野生イチゴ
▲黄色のハナニガナが咲く登山道 ▲マイズルソウ ▲マイズルソウの実
▲一ノ腰、勘助道との分岐点 ▲一ノ腰(1264m)

マスタケと一ノ腰の眺望

「大木のなかば朽ちている所に、マスタケが生えているといって、案内人が採ってきた。これは桂の朽木であろう。ブナの木にはエゾハリタケ・ムキタケが生える、などと語りながら、一の腰という高い峰に登ると、男鹿半島、八郎潟、能代の浦、秋田の高い山々などが眺望された。

ここを下りて、岩堂(冠岩と森吉神社)の峰に登り、神前に幣を奉った。」
 真澄は、案内人が見つけたマスタケの絵図を描き、「鱒の魚にたとえていう」と記している。また「朝飯に、鱒の肉色をしたマスタケの料理をすすめられた。マスタケは、クリ・カツラなどの古木に生えるもので、若いサルノコシカケのようなものである」とも記している。
▲天然盆栽のように美しいコメツガ群落・・・一ノ腰周辺には200本を越える群落があり、大変珍しい
▲雲嶺峠の標識・・・ここで勘助道が合流する ▲ゴゼンタチバナ
▲ウラジロナナカマド(高山紅葉の主役) ▲池塘(飲料水には不適)
▲森吉山を望む

真澄は、森吉神社周辺から眺め
「この向岳(森吉山)に同じく薬師仏をおいて、森吉の神としてまつり奉ってている。
・・・森吉の裾をめぐる山は広く、連瀬・丹瀬などという大きな谷は奥深く幽かで、
山々は重なり合い、連なっている。森吉山は秋田郡の山の最たるものであろう。」

モロビのきよめ火の風習

「森吉山には、前岳、中岳(石森、1368m)、向岳(森吉山、1454m)といって、三つの峰がある。
前岳に小田があり、中岳には石積みの塚がある。
森吉山は一面モロビ(アオモリトドマツ)が生えている

登った人は、必ずこれをみやげに折って下り、一年中、朝夕、きよめ火に用いる。」
前岳は、一ノ腰(1264m)と森吉神社の間にある峰をいう
真澄が記したとおり、モロビの香りは穢れを払い、魔除けの効力があると信じられていた

旅立ちの際は、モロビを燻して全身を浄め、旅の安全を祈願した
また阿仁マタギは、今でも、結婚式に出た後は、モロビを焚きお祓いしてから猟に出る
▲森吉神社前の標識 ▲森吉神社 ▲冠岩

森吉大権現
「中岳のくぼんだところに、高さ七ヒロばかりのの塔の形をした天然の岩があった。
石塔と呼んで人々は深く尊び・・・この石塔のもとに堂があり、

石の薬師像をおいて、これを森吉大権現として崇め奉っている。・・・
昔は麓に寺があったが、いまはただ森吉山竜淵寺という寺の名ばかりがわずかに残って、
修験者の家で守り奉っている。」

森吉神社のご神体は、冠岩(山神様)である
かつてこのお堂は、山伏修験が別当を勤め、冠岩で山伏の修行「胎内潜り」を行っていたという
▲ハクサンボウフウ ▲イワカガミ ▲アカモノ

大人、山人伝説

「前岳をはるばる峰の横道を伝って下った。
この背後の方を黒倉といい、真木の茂る深山で、そこには妖怪がすむという
この国の人は、それをもっぱら大人(おおひと)と呼んでいる

山働きする人たちは、時折その姿を見ることがあるそうである。
ヒヒ・カモシカ・ヤマトト(山父)などの住むのをこういうのであろう。・・・
▲ハクサンチドリ ▲イワイチョウ ▲キバナノコマノツメ

十年の昔、神主が鈴を振り、ハイマツの枝を踏みながら歩いているうちに、シャクを取り落とした。
これを取ろうと装束を脱いで、一丈ばかりも松の下に分け下りると、古い折敷などがあるのを見た。
怪しんで、ここにはまさしく山人が住んでいるのかと、身の毛がよだつほど驚き

一言も口をきかずに山を急ぎ下りてから、このことを人に語ったという。」
森吉山には、神の花畑で「山人平」という地名がある
昔から、こうした大人、山人伝説が語り継がれていたのであろう
▲森吉避難小屋、森吉神社(1270m)

森吉避難小屋(収容人員100人)は、冠岩をご神体とする森吉神社の隣にある
ご利益がありそうな避難小屋だが、近くに水がないのが難点
登山者は、様田コースの起点・こめつが山荘で水を補給し担いで登るのだという

それを知らない我々は、水を全く持たないで避難小屋に転がり込んだ
阿仁避難小屋には、水場があるというがちょっと遠い
ここで一泊するには、水の確保が絶対条件である
登山道沿いの湿地帯にたまっている水は、ことごとく汚れて×
森吉避難小屋前のニッコウキスゲロードの木道を過ぎると、左下のお花畑に下る道がある

チングルマやイワカガミ、ニッコウキスゲ、トウゲブキ、ハクサンチドリ・・・が咲き乱れるお花畑をゆく
まるで極楽浄土を歩いているような気分に浸る
そのお花畑で最も低い場所にヒョウタン形の小さな水たまりがあった

量は少ないが、煮沸すれば問題なさそうだ
濁らさないようにコップで汲み取り、大鍋へ
汲めども汲めども、水位が下がると上流から水が供給され尽きることがない

結局、持参した大鍋、中鍋、フリーザーバッグ2個、やかん一杯に水を確保することができた
▲ガクウラジロヨウラク
▲イワカガミ 
▲チングルマ

花の百名山・森吉山で最も人気が高い花は、チングルマとイワカガミの大群落である
見頃は6月下旬頃と聞いていたが、7月中旬でも咲いていたのには驚いた
今年は斜面に残る雪田が解けるのが遅かったからであろう
▲チングルマの実

日当たりの良い斜面のチングルマは、既に花が終わり、一斉に伸びた羽毛を風になびかせ美しい
▲ニッコウキスゲ・・・開花が遅く、見頃はもう一週間後であろう
▲ニッコウキスゲロード ▲ハクサンシャクナゲ
▲昨日焚火で焼いたイワナ ▲フキの油炒め ▲ミズの油炒め
▲タケノコ ▲サワモダシ ▲サワモダシの煮付

避難小屋の料理にしては贅沢な料理がそろった
昨日、焚き火で燻した頭を熱燗に入れ、骨酒で乾杯!
イワナの骨酒は、疲れた体に超特急で駆け巡る・・・早めにシュラフに潜りこむ

梅雨前線の通過に伴い天候は急速に悪化・・・
小屋の屋根を激しくうつ雨音で目が覚めた
雨は一向に止む気配なし、さらに風まで強くなってきた
屋根から滴り落ちる水は半端じゃない
その軒下に大鍋を置き、雨水を貯める

水のない避難小屋は、一転売るほど貯まった
食器を洗うにも重宝した
水のない避難小屋では、雨はまさに「恵みの雨」であった
▲小さな田・・・小田と呼ばれる池塘 ▲池塘に生えたイワイチョウの葉
▲石森(1368m)・・・阿仁ゴンドラコースが合流するお花畑
▲クマ避け鈴 ▲阿仁避難小屋の水呑場標識 ▲水場で飲料水補給
▲阿仁避難小屋 ▲神棚もある小屋内部 ▲石の神
▲川のようになった登山道。長谷川副会長と小玉氏は森吉山頂を踏む。 ▲大雨でもやってきた団体ツアー

蝦夷の地名

 「高い橋を渡ると、笑内(おかしない)という部落があった。松前の西の磯つたいにも可笑内(おかしない)という所があったが、それは江差の港に近かった。このように同じ地名が陸奥に多い。何ナイ、かにナイという内は、もと沢という蝦夷の言葉で、昔はこの辺にも蝦夷が住んでいたのであろう。
 北秋田市阿仁町には、戸鳥内、比立内、笑内など内のつく地名が多い。「ナイ」はアイヌ語で「沢」のこと。「オ・カシ・ナイ」は、「川尻に仮小屋がある沢」という意味。真澄は4年間、北海道に滞在、アイヌ語に精通していた。それだけに蝦夷の地名に関する指摘は鋭い

 菅江真澄やアイヌ語研究者・金田一京助らは、日本書紀などを根拠に、蝦夷=アイヌ説をとなえた。しかし、東北の遺跡発掘調査の進展で、現在は蝦夷=日本人説が一般的になった。
▲雨の中下山 ▲こめつが山荘(標高820m) ▲山荘内部

マタギ言葉(菅江真澄「すすきの出湯」)

塩谷山長興寺に夜ごもりするとて大勢の人が群になって行く中に、
容貌姿態の美しい女が混じって語らいながら行くのを、皮の衣服を着た荒くれ男たちが犬を引き連れて
来かかり、立ち止まってみて、

「良い女だなあ、サッタテをホロにして、ネネツフをケアワセタイ
と言って、「あはは」と笑って去っていった。それらはマタギ(又鬼)といって、狩人であった。
そのマタギ言葉で言ったのである。

ネネツフは女の性器、サッタテは男の性器、ホロは大きいことをいい、
ケアワセルは、交接することを言うのだという。
彼らの生業は、雪が降ると深い山に分け入ってカモシカを追い、春の堅雪をカンジキで踏んで

熊を探し出し、タテというもので突き殺す。・・・
熊をイタチ、猿をサネ、鹿をカゴ、アオシシ(カモシカ)をケラ、などと呼び、
山に入ると、普段は使わないそれぞれの忌詞(いみことば)が多いものだと彼らが語った。
「山神様は、それはそれは美しい女神様だども、気がたけだけしい。
夏の間は田畑の神様で里さ降りでおじゃるが、冬になるど神聖な山さ入られる。
そうすっと、けがれだ里のごどは一切お嫌いになるので、里の言葉は使わんね

・・・だから昔のマタギは山に入ると、里言葉は禁止され、仲間だけに通用するマタギ言葉を使った 
マタギのふるさと「森吉山」は・・・予想どおり、山伏修験道の山であった
羽黒修験の開祖・蜂子皇子は、口が裂け、眼が異様に鋭い顔をしている

それが山の神の化身として崇拝の対象になっている
何故か「醜い」という特徴は、マタギが信仰する山の神と同じである
ちなみに「山開き」というのは、本来、山伏がまず山に登って、その後から一般の人が上ったのである

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