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七高山〜外輪山、チョウカイフスマの造形美、石碑群、里山伏、山伏と漢方薬、ルリタテハ、小滝修験・・・
▲外輪山(gairinzan)コース

 「鳥海山は登ってみて、ボリュームのある深い山という感は乏しいが、年経た火山だけあって、地形の複雑な点に興味があり、すぐれた風景が至る所に展開されている。頂上火口の険しい岸壁、太古の静寂を保った旧噴火口の湖水、すぐ眼下に日本海を見下ろす広々とした高原状の草地・・・

 これだけの規模の山で、これほど変化に富んでいる山も稀であろう。高山植物にも、チョウカイフスマ、チョウカイアザミその他、この山の名を冠した種類が多いことを見ても、その多彩豊富が察しられる。・・・登るにつれて、雲海の上に島のように、岩手、朝日、飯豊、蔵王などの東北の名だたる山々が続々と現れてくる。」(「日本百名山」深田久弥、新潮文庫)
▲鳥海山大物忌神社から七高山へ
▲七高山・神社分岐点から七高山方向を望む ▲虫穴岩(むしあないわ)

大物忌神社と新山の間にある登山道を歩き、外輪山コースへ
チョウカイフスマ、イワギキョウ、ホソバイワベンケイ、ミヤマキンバイ、イワブクロの花々を撮りながら下る
谷底から一転、急な登りとなる・・・登り切ると外輪山の分岐点に辿り着く

七高山方向に有名な虫穴岩が見えた
虫穴岩にへばりつくようにして何やら撮影している人がいた
「何を撮影しているんですか」・・・「イワウメだよ」
▲ミヤマキンバイとチョウカイフスマの大コロニー

いや〜、これは見事だった
チョウカイフスマの白とミヤマキンバイの黄色のコラボが絶妙で美しい
まるで巨大な天然盆栽といったところ・・・やはり自然の造形美にはかなわない
七高山(shichikouzan、2,229.2m)

ここから眺める御来光が素晴らしいという
太陽は、古代人にとって日々その日に死ぬと考えられていた
一度死んだ太陽は、再び翌日の朝、東から生き返る

つまり、一日一日が生と死の循環、
四季を繰り返す一年一年もまた生と死の循環
と考えていた
日本人にとって山は、里の暮らしを見守る祖先霊がいる聖域で、

その山の向こうに阿弥陀浄土(阿弥陀仏のすむ極楽浄土)を思い描いた
山越阿弥陀図は、臨終しようとする信仰者の前に、阿弥陀如来と菩薩たちが
西方極楽浄土から迎えに来た場面を描いている

その山越の稜線は、落日と日の出を画する境界線で、太陽の死と蘇りをも意味していた
こうした山に神や仏、理想郷を創造する感性・・・これこそ現代人が失いかけているものではないか
▲七高山から石碑群のあるピークを望む ▲七高山から新山を望む

溶岩ドームのような荒々しい新山・・・
作家・藤沢周平は、鳥海山の活火山について次のように記している

 「羽前と羽後の両国境にまたがり、出羽富士と呼ばれる、美しい線をもつ鳥海山は火山である。いまは眠りに入ってから久しい。しかしそれが眠っているだけにすぎぬことは、時折地の底に不気味な鳴動をひびかせ、麓の村々を驚かすことで知られるのだ。」
▲信仰の山を象徴する石碑群

左の「鳥海山大」は、「鳥海山大権現」を祀っているのであろう
その隣の「先祖代々の霊位」は、麓の先祖の霊は鳥海山に上り、山の神様になるという信仰の表れであろう
右の石碑には「海山」は、漁業の神として祀っているのであろう

つまり、鳥海山は、農業の神・鳥海山大権現、山の神、漁業の神として崇められているのが分かる
七高山を目指して百宅口、矢島口から続々と登山者が登ってきた
矢島口から登ってきた若者に「何時間かかりましたか」と聞くと、

「7時半に出発したから3時間ほどですね
昨年は雪がなく延々急峻な岩場を登らされたが、今年は雪渓があって楽だった」とのこと
鉾立コースだと5時間だからダントツ早い!
▲外輪山コースの絶景

外輪山コースは、行者岳、伏拝岳という山伏修験道にちなんだ山名や祠が至る所にあった
垂直に切れ落ちた馬蹄形カルデラ、その上部に奇妙な巨岩が数多く点在している
恐らく山伏たちの修行道場であったのだろう


例えば右の写真の岩は「覗き岩」のように見える
この奇岩の断崖に身を乗り出し、先達が叫ぶ
「親孝行せいよ!」「仕事、勉強おろそかにするな!」などと背後から怒鳴られると・・・

「はい!」と答えるしかないだろう
ちなみに修験の行者のことを「山伏」と呼ぶ・・・修験者と同義語
「野に伏し、山に伏し、仏と共にあり」という言葉に由来する
聖なる山で修業し、里へ下りてきた行者には、不思議な霊力が備わっていると信じられていた
こうした登拝者への神聖視は、人智を超えた山の力に対する畏敬の念にほかならない
山は、里の田んぼを潤す水源であり、地下水は湧水となって湧き出し海をも潤してきた

秋になれば、サケが大群となって川を遡上する
12月、鉛色の空に雷鳴がとどろき、みぞれ混じりの寒風が吹き荒れる頃、
大波に乗ってハタハタの大群が産卵に寄って来る

季節になれば、食べ物の方からやってくるのだ
これもまた山の恵みの力である

ゆえに、鳥海山は、山そのものがご神体として崇められてきたのである
▲イワブクロとチョウカイフスマのコラボ
▲ハクサンチドリ ▲コバイケイソウ ▲外輪山の内壁を望む
行者(ぎょうじゃ)岳(2,159m)の梯子  ▲ハクサンフウロ

鉄の梯子の外輪山内側には、大物忌神社に至る登山道があった
外輪山コースでやってきた登山者は、神社への最短コースとして利用しているようだ

里山伏
 修験者は、諸国の霊山を巡って修行し、験力を試すという山伏スタイルが出来上がっていった。江戸時代になると、移動が制限された結果、村里に定着し、加持祈祷をする「里山伏」へとかわっていった。

 農山村では、農業をしながら、治療や無病息災、雨乞いなどの宗教活動や獅子舞番楽などの芸能、教育、名付け親、争いの仲裁役、農耕の指導まで行った。噴火や地震、疫病、凶作、神隠しなどの不可解な災厄や不幸、水争いなどが絶えない村の精神的な支えとなってスーパーマンのごとく大活躍したのが里山伏であった。

 故に、鳥海山麓のほとんど全ての村々に鳥海山講が結ばれ、獅子舞番楽といった芸能も数多く伝承されている所以であろう。(講とは、霊山に参拝する信者組織で、霊山の名をつけて鳥海山講と呼ぶ)
 山伏は、深山にこもって修行していただけに、「行者ニンニク」や山ワサビ、タケノコ、ワラビ、ゼンマイなどの山菜やきのこなどの山の恵みに長け、昔から薬草、漢方薬にも通じていた山伏は、病を治す医者でもあった。越中富山の薬売りは、立山修験がルーツだという。

富山の薬売りの起源は立山修験
 越中の立山修験者は、農閑期に村々へ出向き、立山への参詣登山を呼びかけた。その時、村の代表者のもとに「立山曼荼羅」の刷り物とお札と薬を置いておき、使った品物の代金を1年後に回収するシステムをとっていた。これを越中藩が取り上げて、「万金丹」を調整せしめ、配置売薬というものが始まった。

 江戸時代、配置売薬すなわち置き薬は、富山の薬売りとして親しまれ、かぜ薬、胃腸薬などを広く家庭に配置して、年に2回の春と秋に補充、薬の使用代金は後払いとし、特に農村部で珍重された。
伏拝(ふしおがみ)(2,120m)

菅江真澄と富山の薬売り
 1784年、菅江真澄は、鳥海町八木山から羽後町田茂ノ沢を結ぶ「冬の八木山越え」で・・・
 「八木山を越えようと進むと、キコリが通った道がいくつも見えて迷っていると、富山の薬売りが来たので、その後をついていった

 1784年、富山の薬売りは、既に鳥海町や羽後町の奥地までやってきていることが分かる。この頃は、阿仁の旅マタギが、長野県秋山郷などでイワナ漁やカモシカ、クマなどの猟をして温泉宿に売っていた時代である。貴重な熊の胆は、当初富山の薬売りに売っていたようだが、安く買い叩かれた。それなら自分でと、阿仁マタギ自ら薬売りを始めたという。ここにも修験者=薬売り=マタギの関係を垣間見ることができる。
▲雲海に煙る笙ガ岳(しょうがだけ、1,635m)を望む  ▲外輪山コースから鳥海湖を望む
▲外輪山コースの馬の背登山道・・・あいにくガスがかかって千蛇谷(せんじゃだに)は全く見えない
▲ウサギギク ▲ヤマハハコ
文珠岳(2,005m) ▲ハクサンシャジン
▲トウゲブキ・・・残雪を背景に入れると黄色の花が際立つ
▲ルリタテハの擬態

閉じた羽は立体的かつ岩に同化し、ピクリとも動かない
それをどうして見つけたかというと・・・
岩に向かって、一生懸命カメラを向けている女性がいた

近付くと、閉じた羽を開くまでひたすら待ち続けていた
すると、ほんの一瞬開いたら、瑠璃色の美しい羽根が現れた
そこをパチリと撮ったら、何事もなかったかのように静かに立ち去った
▲ヒナザクラ・・・雪田植物の代表種。雪田を白く覆う群落は見事。 ▲シロバナトウウチソウ
▲ニッコウキスゲ群落、後方は笙(しょう)ガ岳(1,635m)

登山登拝の風習(「ふるさとへ廻る六部は」藤沢周平、新潮文庫)
 私の郷里である山形県庄内平野の村には、月山、鳥海山を霊山として、月山を上の御山、鳥海山を下の御山と呼び、毎年交代に村の代表が登山登拝して来る風習があった。下の御山である鳥海山の場合は、単独の登山になるが、上の御山の月山に登る場合は、二日がかりで湯殿山、月山、羽黒山を駆けて帰って来る。

 そして村では、この村の代表の参詣人である数人の男たちが無事に帰って来ると、神社の長床に寄り集まって、「はばき脱ぎ」の酒宴をひらくものであった。はばきは脛巾で、のちの脚絆のことであり、そこで霊山参りの旅支度を解くという意味だったのだろう。

 こういう風習には、単に登山参拝の苦労をいたわるというだけでなく、精神潔斎して霊地を旅し、神と接触して来た者を人間世界にもどす精進落としの意味もあったように思う。
▲御田ガ原のハクサンイチゲ群落、背後は二ノ滝口、万助口からやってきた登山者
▲ハクサンイチゲ

雪解けの斜面を彩るハクサンイチゲの群れは、実に美しい
一瞬、チングルマかと思ったが、花も背丈もはるかに大きい
御田ガ原を登り切り、振り返ると・・・
新山は立ち上るガスに包まれ見えなくなっていた
千蛇谷の雪渓は、真夏日の光を浴びて解け出し、空気と雪渓との温度差が大きくなる

それに連れて濃いガスが大量に発生しているのだろう
山の表情は、早朝と午後では一変していた
刻々と千変万化する山の表情・・・それだけに同じ山でも興味は尽きない
▲ニッコウキスゲ ▲クルマユリ

宿坊集落・小滝修験

 にかほ市象潟の金峰神社は、かつて登拝道の起点であった小滝口にある。小滝集落は、かつて修験者が数多く居住し、各地から来る道者たちを宿泊させ、鳥海山へ案内する宿坊集落であった。今風に言えば、旅館業兼登山ガイド兼宗教家といった肩書になるのだろう。修験の子弟は12歳で山伏修行にの道に入り、厳しい行を経て21歳で一人前になったという。

当時の参拝ルート・・・金峰神社(160m)〜奈曽の白滝〜拝み松〜霊峰〜鉾立〜鳥ノ海〜鳥海山大物忌神社(2,150m)。標高差は現在の倍、二千mに及ぶ。登るだけで苦行に等しい山行である。 

 小滝の宿坊に一泊した道者たちは、午前2時〜3時頃、小滝修験を山先達(案内人)として山頂の大物忌神社へと出発した。道者の中には、山の途中の四合目霊峰付近(700m)の馬立場(うまたてば)まで馬を利用する者もいた。小滝には1866年当時96軒で98頭の馬が飼われていた。  
▲御浜神社の祠
▲御浜小屋を望む ▲ヨツバヒヨドリ

日本百名山
 深田久弥の「日本百名山」は、昭和34年3月雑誌「山と高原」で連載が始まった。連載第一回が鳥海山・男体山、最終回は筑波山・富士山で終わっている。百名山の選定基準は、「山の品格を第一の基準」に、「山の歴史」「個性」を条件に加えている。

 昭和39年に単行本で刊行され、翌年、第16回「読売文学賞評論・伝記の部」を受賞。林房雄は「一日三山に限って大切に読みたい不朽の文学」と絶賛した。
▲ニッコウキスゲと鳥海湖

鳥海湖を眺めながら昼飯を食べようと思ったが、余りの強い陽射しに御浜小屋に避難する
時計は午後1時半・・・休憩200円となっていたので頼むと、
「2時から宿泊客が入るので、それまでだが良いか」「もちろんOK」

屋根の下は涼しく快適・・・昼食後しばし横になって昼寝をする
昼寝はわずか20分ほどだが、元気回復
ここから鉾立までノンストップで下った

家に帰って思った
汗まみれのまま家の玄関から入って、裏の庭に通り抜ける
それだけで、悪疫・災禍が一気に退散するような気がした

 参 考 文 献
「日本百名山」(深田久弥、新潮社文庫)
「鳥海山花図鑑」(斎藤政広、無明舎出版)
「日本の山と渓谷5 鳥海・月山」(加藤久一、山と渓谷社)
「花の百名山 登山ガイド上」(山と渓谷社)
「仁賀保町史 普及版」(仁賀保町教育委員会)
「山伏入門」(宮城泰年、淡交社)
「山の宗教 修験道案内」(五来重著、角川ソフィア文庫)
「アルペンガイド2 東北の山」(山と渓谷社)
「文豪が愛した百名山」(中川博樹・泉久恵、東京新聞)
「ふるさとへ廻る六部は」(藤沢周平、新潮文庫)
「象潟町史 通史編上」(象潟町)

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