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遠野物語、早池峰山と山伏神楽、冷害飢饉、カッパ、ザシキワラシ、オシラサマ、神隠し、コンセイサマ、石神・・・
2012年6月30日〜7月1日、「第23回ブナ林と狩人の会:マタギサミット」が岩手県遠野市で開催された
2010年、「遠野物語」が誕生して百周年を迎えた
皮肉にも、その翌年の3月11日、東日本大震災が発生した

奥深い山間の遠野市から北上山系の峠を越えると、大津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸に達する
ヘリコプターなら15分、車でも約1時間で移動できる
遠野市は、甚大な被害を受けた沿岸部に、人や物資を送る一大拠点として活躍した

「災害対応のモデルケース」といわれる遠野市・・・
そのパワーの源は、柳田国男の「遠野物語」にあるのではないか
二日間、遠野周辺を走り回った

遠野は、やはり「遠野物語」なしに考えられない地であった

▲うすゆき山荘前から信仰の山・早池峰山(1,917m)を望む

北上山地の最高峰・早池峰山を眺めて思い出すのは・・・
「遠野物語」の挑発的な序文である

「思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるらん。
・・・国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」
▲早池峰山を源流とする岳川・魚止ノ滝

  1908年・明治41年、柳田国男は、二つの大きな体験をした。
 一つは、宮崎県椎葉村での体験。椎葉村には、山地での農業や焼畑農業に興味を持ち訪ねたのだが、中瀬村長から聞かされた狩猟の方法や狩りに関する言葉、作法等に興味を抱いた。(明治42年、「後狩詞記」を自費出版した。)

 同年11月、佐々木喜善に出会い、岩手県遠野地方の不思議な話に強く魅せられた。感動した柳田は、手帳に「その話をそのままかきとめて遠野物語をつくる」と記した。翌年8月、自ら遠野を訪れるほどの熱の入れようだった。

 柳田は、ここでも山人の存在に注目している。1910年・明治43年、「遠野物語」を自費出版・・・「要するにこの書は現在の事実なり、単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず」と述べているとおり、過去の話ではなく現在の事実=「民俗の発見」を世間に発表したのである。
▲大償集落の「神楽の館」 ▲大償地区の早池峰神楽(ユネスコ無形文化遺産)

 山人は、「古き純日本の思想を有する人民」ととらえ、大陸から新たにやってきた稲作民=平地人によって山間部へと追いやられた日本先住民の末裔であると考えた。大正6年「山人考」、大正15年「山の人生」といった山人研究へと進むきっかけとなった。
▲岳地区の早池峰神楽(ユネスコ無形文化遺産、大迫郷土文化保存伝習館)

疑問1・・・出世コースを歩いていたはずの柳田国男がなぜ「山人」を追及しようとしたのか

 東京大学法学部出身の柳田国男は、そのころひとつの悩みにとらわれていたように思われる。それは、自分の出生に関する悩みである。「播磨風土記」によると、柳田国男の村に東北から連れて来られた蝦夷がいたとの記録がある。彼は、その蝦夷の子孫ではないか、という疑いをもった。故に、自分の祖先であるかもしれない山人を追求しようと思ったのではないか
 
 「われわれのこの世に生きている深層には、別の世界が隠されている。それが山人の世界である。山人は、われわれが追いやった、かつての日本の原住民ではないか・・・山人の栄光をとりもどせ。」 (上記は「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」梅原猛、集英社文庫の要約)
▲早池峰神楽の御面(大迫郷土文化保存伝習館)

疑問2・・・山人の研究から常民・里人の研究に転向したのはなぜか。


 柳田は山人研究の前途に不安をもったのではないかと思う・・・
 明治37、8年の戦争を経て、日本は国家主義、軍国主義の方向を力強く歩こうとしていた。そして明治43年に幸徳秋水事件が起きて・・・天皇制の思想を危うくするような不穏思想は許されない。私はこの事件の影響を、柳田も免れ得なかったと思う。

 山人、国ツ神、鬼、天狗、猿・・・体制からはみだされた悲しい民の復権をはかろうとすることは不穏な思想とされるに違いない。私は、柳田は自分の研究対象を徐々に変更していったのであろうと思う。やがて、柳田は、山人の研究から常民の研究に移る。・・・そのような転向によって柳田はもはや、不穏思想と何のかかわりもなく民俗学の王道を歩むことができた。・・・上記は「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」(梅原猛、集英社文庫)から抜粋

 柳田の学問の特徴が、「日本は一つ」という普遍化志向に傾斜していく過程を考えると、何となく当たっているような気がする。赤坂憲雄さんは、「いくつもの日本、いくつもの東北」の視点から柳田民俗学を痛烈に批判しているのも共感できるが、もし転向しなければ日本の民俗学の成立が遅れたと危惧する梅原猛さんにも共感するものがある。
▲早池峰神社(花巻市大迫町)

早池峰神社の左手にある大迫郷土文化保存伝習館に入った
そこで昭和40年代に記録された「山伏神楽」の映像を拝見した
早池峰神楽は、早池峰山を霊場とする山伏によって代々舞い継がれてきたという

昭和の初めころまでは、農閑期に各地を巡業して歩いた
こうした通り神楽、廻り神楽と呼ばれた巡業は、戦後に途絶えたという
今では、神社の祭礼や年祝い、新築祝いなどに招かれたり、イベントで公演することが多い

山間奥地の岳集落では、田畑を開くような場所はない
故に、若者は出稼ぎするしかなかった
驚いたのは、出稼ぎにいく若者が大きな太鼓を担いで行くシーンだった

都会のど真ん中・・・仕事の合間に早池峰神楽の練習を欠かさない
その姿に、500年以上の伝統の重さを感じた
▲遠野の早池峰神社(遠野市附馬牛町)

「遠野物語第二話」・・・「四方の山々の中に最も秀でたるを早地峰という、北の方附馬牛(つくもうし)の奥にあり」
「遠野物語第二十八話」・・・「はじめて早池峰に山路をつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時には遠野の南部家入部の後のことなり」

早池峰山への登山口は、東西南北にあり、それぞれの登山口に早池峰神社があるという
西の登山口が花巻市大迫町の早池峰神社、南の登山口が遠野市附馬牛町の早池峰神社である
しかし、遠野物語に出てくる早池峰神社は、現在の早池峰山登山口から遠すぎる感は否めない

さらに遠野の中心部からも、最も遠い北の最奥に位置している
「遠野物語」のお蔭で、かろうじて保存伝承されているのではないか
その苦労が伝わってくるほど、人跡稀な神社であった
▲遠野市附馬牛町大出集落を流れる猿ケ石川

底石が見えるほど透明度は抜群・・・きっとイワナも生息していることだろう
イワナやヤマメ、アユ、カジカなど、渓流魚にかかわる民俗の記録があれば最高なのだが・・・
▲赤い鳥居・・・羽黒岩はここから400mの高台にある
▲羽黒神社鳥居手前の天狗下駄モニュメント・・・道路沿いに、こうしたモニュメントがあるから入口が分かる ▲草刈や階段の補修、後○mといった標識など、良好な維持管理に感服 ▲高さ9mもの巨岩を祀っている。右の岩は縦に割れている。

「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし」
と語っているように、秋田の農山村にも似たようなものが「無数」にあったはずである
しかし、近代化の中でその多くは捨てられてしまった

遠野を歩いて感じることは・・・日本が捨てた宝物を、きちんと現地に保存伝承していることである
さらに地域の人たちが愛着を持ってそれを維持管理している点が素晴らしい
もし「遠野物語」がなかったとすれば、どこにでもある平凡な地域になっていたのではないか

そのことを遠野文化研究センターの前川さんに聞くと
「遠野の人たちは、新しい物好きなんですよ。だけど、古いものも大事にするんです。」
その「古いものも大事にする」ようになったのは、「遠野物語」があったからに違いない

「遠野物語」誕生から百年・・・
秋田には、さらに約200年前の事実を記録した「菅江真澄遊覧記」があるではないか
その「秋田・民俗の発見」の物語をもとに保存伝承していくことが、秋田の宝を活かす道であろう
第23回ブナ林と狩人の会:マタギサミットin遠野
今回のテーマは、「今、東北の山々で何が起きているのか」
レポート「放射能汚染と東北の狩猟」(田口洋美東北芸術工科大学教授)

平成23年度、猟友会員は約3千人減少。うち福島県はその1/3に当たる956人の大幅減
従来の捕獲体制が維持でないほど深刻な事態に直面している。
チェルノブイリの教訓・・・
南ドイツのイノシシに対するセシウム137の影響は、事故後25年経過しても全く減衰していない
イノシシは土壌内の根菜類やミミズを捕食、汚染土壌を体内に吸収し続けているためと考えられる

従って、イノシシの放射能問題は長期化する
過疎から廃村化、狩猟者の減少と高齢化、猟銃の所持規制が厳しくなったところに、原発事故が起きた
野生動物に放射能汚染が広がれば、食べられなくなる
奪った命が食べられなくなるとすれば、狩りはやめるしかない

昨年の猟友会員は、全国で約3千人が減少、うち福島県はその1/3を占める
伝統的な狩猟文化は、今、崩壊の危機にあると訴えた
そして、地方に暮らして狩猟ができる担い手をどう育てるか・・・それがマタギサミットの目的だと締めくくった
パネルディスカッション「今年、クマの大量出没は起こるのか?」

岩手県では既にクマの人身事故が8件、クマに注意の警告が出された
・クマとの遭遇が10m〜20mと極めて近く、いつ襲われてもおかしくない
・秋田でもクマの出没情報は毎日のごとく出ている

山形ではブナの実が皆無状態だから大量出没するだろう
・6月〜7月はクマの恋の季節、若いクマは里へ追いやられ大量出没するだろう
・岩手では平成14年以来、春クマ猟をやっていない。春クマ猟復活で、クマに人の怖さを教えるべき

・クマの大量出没する理由は、中山間地の崩壊、春クマ猟の自粛でクマは人間の怖さを知らなくなったこと
・春クマ猟の自粛が3年も続けば、親グマは人間の怖さを教えることができない。故に、人里へ出てきてトラブルを起こしオリワナで大量に捕獲されるという悪循環に陥っている。

・秋山郷ではかつて50名以上いた猟師が、7名に激減。サラリーマンが多く、猟は土日にしかできない。秋山郷は地形が険しく大人数で巻かないとクマは捕れない。だから今春は、巻きの範囲に3頭、4頭も入っていたが、捕獲はゼロに終わった。狩猟者の減少で、伝統の巻狩りが揺らいできている

・クマは里の味を覚えると何度も出てくる
・リンゴ園では小さいリンゴを間引いて穴に埋める。いい匂いがするからクマは毎日やってくる。

・クマは、冬眠から覚めると去年の残り物を食べる→ブナの若芽→山菜→タケノコを食べる。タケノコが終わる6月下旬〜8月が最もエサが少ない時期だ。大きなクマは奥地にいるが、そのテリトリーから追い出された若いクマは里に出没する。クマがいなくなれば、阿仁マタギもいなくなる。いい知恵はないものか。

農業者は、農作物を食い荒らす害獣として駆除したがる。しかし、農業と狩猟を行う人は、そのバランスをとろうとする。農耕と狩猟はお互いに補完し合う関係にある。表面だけで語ってほしくない。
・ニホンシカが増え、クマは待ち伏せしてシカを襲い食べている。肉食化したクマが増えている。

・世界自然遺産白神にもシカが入る恐れがある。早く手を打たないと手遅れになる。シカやイノシシにも警戒が必要だ。
・最近、カモシカの生息密度が減少している。カモシカを食べるクマが増えすぎているのではないか

・かつては、ツキノワグマもサケ、マス類を食べていた。下流にダムや頭首工などができたことで、食べられなくなっただけ。時々、ダム湖で泳いでいるクマを見かける。恐らく魚を捕っているのだろう。
今年はクマが大量出没するだろうとの予測で一致

・クマが出たから駆除するだけでは根本的な解決にならない。本来、狩猟は、野生動物に対して圧力をかけ、ナワバリを主張していく行為。そうした出没を抑止する予防対策が重要だ。
▲夜の部・・・本番のマタギ交流会
▲平倉神楽

平倉神楽は、上郷町平倉地区に伝承される山伏神楽
明治34年(1901)頃 宮守町の塚沢神楽から指導を受けたという
塚沢神楽は、大迫町岳集落に継承される早池峰神楽(ユネスコ無形文化遺産)の弟子神楽

ということは、平倉神楽は孫弟子にあたる
▲仙北豊岡熊マタギ4名参加 ▲左端は沢登りの先駆者・ろうまん山房の高桑信一さん

山釣りでよく出会うのは、マタギ、ゼンマイ採り、マイタケ採り、そして沢登りの人たちである
秋田県出身で山釣りと言えば故鈴木竿山さん、そして沢登りと言えば高桑信一さんだ
高桑信一さんは秋田県男鹿市出身・・・千年の古道・仙北街道で資料をやりとりしたのを思い出す

彼の名著「一期一会の渓」(平凡社)、「道なき渓への招待 沢登り大全」(東京新聞)、「山の仕事、山の暮らし」(つり人社)、「古道巡礼」(東京新聞)など・・・沢登り、山旅に限らず日本古来の旅のスタイルを復活させたり、滅び行く山の人生・民俗文化を記録するなど、縄文・蝦夷の遺伝子を色濃く持つ秋田人である
冷害飢饉と遠野物語
▲大飢饉で餓死した者を供養した「五百羅漢」

天明の大飢饉は、遠野でも多くの餓死者が出た
苔生す山中の自然石に、500体もの羅漢像が線彫りで刻まれている
凶作で餓死した者の喘ぎ、苦しみ、叫び声が聞こえてくるような錯覚に陥る

義山和尚は、その魂を鎮めるために、500体もの羅漢像を彫り続けるしかなかったのだろう
北東北は、稲作の北限に位置していただけに凶作・飢饉常習地帯であった
中でも、冷たい北東風「ヤマセ」によって冷害になる筆頭が岩手県北上盆地であった

その過酷な風土は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも記されている
「日照りの時は 涙を流し
寒さの夏は オロオロ歩き」

ちなみに平成5年の大凶作の年の作況指数は・・・
青森「28」、岩手「30」、遠野「8」、宮城「37」、秋田「83」・・・
東北の太平洋側が著しく低い・・・特に遠野は壊滅的な低さだ

「遠野物語」は、この世とあの世の境界がはっきりしない
むしろ交錯しているような不思議な物語ばかりである
それはヤマセによる冷害飢饉常習地帯+大地震という過酷な風土から生まれた物語だからであろう
菅江真澄が記した天明の大飢饉「外が浜風」の要約

 天明5年(1785)、西津軽郡森田村の小道を分けていくと、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。ある男が言った。
 「これは皆飢え死にした者の屍です。・・・夕暮れ時になると、誤って死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足を踏み入れるありさまで、その臭い匂いといったら、それはひどいものでした。・・・

 食べ物がないので、生きている馬をとらえ、首に綱をつけて、家の梁に結び、刀を馬の腹に刺して殺し、したたる血をとって、いろいろな草の根と一緒に煮て食べたりしました。・・・

 こうして生き物を食べ尽くすと、自分の産んだ子、あるいは弱っている兄弟や家族、病気で死にそうなたくさんの人々を、まだ息をしているのに脇差しで刺したり、胸のあたりを食い破って飢えをしのぐこともありました。人肉を食った者の目は、オオカミなどのようにギラギラ光り、馬を食った人はみんな顔色が黒くなって、やっと村々に生き残ったのです。・・・

 弘前に嫁にやっていた娘が、この飢饉で母はどうしているかと訪ねてきました。母は冗談に娘に向かって『サルが丸々肥えているようだ。食べたらさぞ美味しかろう』と言いました。娘は薄気味悪くなって、夜、母の寝たすきを見て、逃げ帰ったということです。」
遠野カッパ伝説 
▲カッパ淵

遠野の猿ケ石川には、カッパが多く住んでいたという
カッパ淵は、その支流の小川・・・
農村なら、どこにでもある農業用水路だが、そのほとんどはコンクリートで整備されている

もしこの小川がコンクリートで整備されたら、カッパも住めなくなるだろう
「遠野物語」の効果は、こんな所にも絶大な威力を発揮していた
ちなみに奥の釣り竿の先には、カッパの大好物「きゅうり」がぶら下がっていた
▲カッパ淵とゆかりの深い常堅寺 ▲カッパ淵の祠
▲薬師岳に源をもつ猿ケ石川源流部 ▲洗濯する女たちを下から覗き見するカッパが住むという「太郎淵」

真っ赤な顔をした遠野カッパは、あちこちの川や堰、沼などに住んでいて村人や馬にいたずらをする
太郎淵に住むカッパは、洗濯する女性を下から覗き見する好色カッパとして有名とか
さらには、村の女性に子どもを産ませたりするカッパまで登場・・・その子の手には水かきがついていたという

この想像力の源泉はどこから来るのだろうか
度重なる飢饉に襲われた江戸時代・・・子供を間引く話は当たり前の時代だった
残酷にも子供の頭に石を結び付けて川に沈めたという言い伝えもある

子どもの頃、川遊びで水死すれば、カッパに足を引っ張られたのでは・・・と言われた
カッパは「人を溺れさせ、肛門から手を入れて尻子玉を抜く」として水難の元凶とされた
旧家に住む神「ザシキワラシ」
▲ザシキワラシ

遠野物語第十七話・・・「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。
この神は多くは十二三ばかりの童児なり」
一般にザシキワラシは男の子だが、遠野では女子のザシキワラシも登場する

このザシキワラシも、飢饉との関係説がある
飢饉の際に生まれた子供は、育てることができず「口べらし」と称して間引きが行われた
当時は生まれたばかりの赤子は、霊的に未成熟で間引くことを神に返す行為とされた

7歳までに死んだ子供は別の人間に生まれ変わることができると信じていた
だから、そんな子供は墓ではなく土間や台所に埋める風習があった
つまり、間引きされた子供がザシキワラシになったとする説である

▽「輪廻転生」の思想
 死んであの世に還った魂が、この世に何度も生まれ変わってくる・・・人間は猿に生まれ変わる、熊に生まれ変わる、イワナに生まれ変わる、植物に生まれ変わる・・・とすれば、飢饉で犠牲になった子供がカッパやザシキワラシに生まれ変わったとしても、何ら不思議でない。
家の神「オシラサマ」
▲遠野ふるさと村の曲がり屋 ▲南部藩は、日本有数の馬産地(荒川高原)

甲斐の国・南部氏は、もともと馬を扱う民であった
岩手に移封されても南部駒として有名な日本有数のブランドを育て上げた
南部曲がり屋は、住居と馬小屋を直角に組み合わせたL字型の茅葺民家

馬と人が一つ屋根の下に住んでいた・・・それが、娘と馬が交接してしまう想像力を生んだものであろう
それに怒った父は、馬を桑の木に吊るして殺してしまう
娘はその馬の首に乗ったまま天に昇り・・・オシラサマになったという
▲馬産の神・駒形神社
▲曲がり屋の床の間に飾られたオシラサマ ▲伝承園・千体のオシラサマ

オシラサマは、30cmほどの桑の木を削って男女や馬などの顔を描き、布を着せ神様として祀る
養蚕の守り神や家、火、目、狩り、子供、女の病治癒の守り神として信仰されている
オシラサマには毎年新しい布が着せられるが、これをオセンタクと呼ぶ

オシラサマは、年に一度は遊んであげないと祟りがあるので、女性だけで「オシラ遊び」をする
家の神を祀る行為は、女性の特権であった
神隠し
▲菅原神社参道・・・柳田国男は、ここで獅子踊りを見たという

第七話「上郷村の民家の娘、栗を拾いに山に入りたるまま帰り来たらず」
第八話、たそがれに、女や子供が突然神隠しにあうことは他の国々と同じ。寒戸の娘は梨の木の下に草履を脱ぎ捨てたまま行方知れずになってしまった。

たそがれ時は、人間が活動する昼と魔物が活動を開始する夜との境目で、
神隠しの最も危険な時間帯であった
ちなみに、クマが活発に活動する時間帯も「たそがれ時」である

今でも、タケノコ採りやゼンマイ採りなどで山に入り、行方不明になっている人も少なくない
そんな時、「神隠しにあったのでねぇがぁ」と言う
性器崇拝「コンセイサマ」と山の神
▲雨風祭り・大男根のワラ人形 ▲遠野ふるさと村のコンセイサマ
▲山崎のコンセイサマ

社殿の中には、昭和47年に発見された高さ1.5mもの大コンセイサマを祀っているという
男根を模した石棒や立石は縄文時代から存在し、祭祀に使用された
性器崇拝は縄文の昔から連綿と続いてきたもので、石や木製の男根を祀った神社や祠が数多く存在した

明治に入ると、コンセイサマは野蛮かつ卑猥なものとして禁止令が出され、その多くは消滅した
それでも東北・関東では根強く残っている地域も少なくない
恐らく、昭和47年に発見されたコンセイサマは、明治の頃に一旦処分撤去されたものだろう

それを拾って再度祀るというのは、「遠野物語」の力にほかならない
今でも子宝と婦人病にご利益があるという
▲手前が男根石で、奥が女陰石 ▲穴が開いた女陰石

「この駒形神社は、俗に御駒様といって石神である。男の物の形を奉納する。」「遠野物語拾遺15」
駒形神社の本尊も、コンセイサマだという
▲古代の巨石文化と似ている続石
▲泣石 ▲続石の傍らには、山の神を祀っている

続石は、大きな二つの石を台座に巨大な石が微妙なバランスで乗っている
あの巨大な震災でも落ちなかったのは何故か
ここは山の神が遊ぶ場所だからであろう

山の神は女神・・・最も好きなものは男根とオコゼである
そう考えると、泣石も続石もコンセイサマに見えてくる
石神信仰
▲妻の神の石碑
 「遠野には多くの石碑が建っている。・・・講をつくって、出羽や日光や伊勢や金毘羅に詣った神々の霊によって、この村を悪霊から守るという意味が石碑に込められているようである。それゆえ石碑は町の境に建てられているのである。

 ・・・石は神なのである。石を神とする考え方も、また石器時代、縄文時代から伝わるものである。ここにもまた、縄文の文化の名残があるのであろうか。」「縄文・蝦夷文化を探る 日本の深層」(梅原猛、集英社文庫)
姥捨伝説・デンデラ野
▲姥捨て小屋 ▲デンデラ野の高台は草刈中だった

昔、60歳を過ぎると、デンデラ野へ追いやられた
意外にも、その高台から里が見下ろせるほど近い
日中は里へ下り、農作業の手伝いでわずかな金や作物をもらい、死ぬまでここで暮らしたという

もちろん家に戻ることは許されなかった
野に出ることを「ハカダチ」、夕方、野から帰ることを「ハカアガリ」という
「ハカタ゜チ」は「墓を発つ」、「ハカアガリ」は「墓から上がる」という意味

デンデラ野に追いやられた老人は、生きてはいるものの「墓に入った故人=死人」なのである
つまり、デンデラ野は墓場で死人の世界だったという

姥捨ての風習は、凶作飢饉対策の一つ
江戸時代の百姓は、平年作でもギリギリの生活を強いられた
飢饉に陥った場合、共倒れを防ぐには、老人と子供を間引くしかなかったという貧しい現実があった
▲ダンノハナから佐々木喜善が生まれた村を望む

山口のダンノハナは、中世の館があった時代には、囚人を処刑する場所だったという
今は、村の共同墓地になっていたが、村を一望できる絶景の地であることに驚いた
その共同墓地には、佐々木喜善の墓もあった

碑銘は折口信夫が筆をとり、柳田が「遠野物語」の印税をあてて建てたという
▲山口の水車小屋

水車小屋は形だけかなと思って近づくと、まだ現役で活躍していたのには驚かされた
清冽な水の勢いが素晴らしく、これが小水力エネルギーの元祖であることに納得
昔は、どこにでもあった水車小屋だが、今となっては絶滅危惧種・・・

こうした日本が捨てた宝物を大事に保存伝承しているのは、やはり「遠野物語」の力であろう

参 考 文 献
ちくま日本文学全集「柳田国男」(筑摩書房)
「縄文・蝦夷文化を探る 日本の深層」(梅原猛、集英社文庫)
「考える人」2012年冬号、新連載「柳田国男、今いずこ」(山折哲雄)
遠野物語の旅ガイド「とおのあるき」(岩手日報社)
「東北日本の食−遠野物語と雑穀・飢饉−」(遠野物語研究所)
NHKカルチャーアワー「宮沢賢治」(栗原敦、NHK出版社)
「水木しげるの遠野物語」(小学館)
「辺境を歩いた人々」(宮本常一、河出書房新社)
「花の百名山 登山ガイド上」(山と渓谷社)
▲高清水展望台から遠野を望む

鳥の目線で遠野を一望したい方にはオススメのスポット
素晴らしい眺望だが、観光客はほとんどいない
展望台から遠野を遠望すれば、四囲を山に囲まれた盆地であることが一目瞭然である

正面の尖がった高い山が六角牛山
左の奥の山間部が佐々木喜善が生まれた土淵町山口
右の住宅密集地が旧城下町・遠野市街地

遠野には、「山」、「里」、「町」の三つの暮らしの領域に、それぞれの文化が育まれ、
互いに影響し合い、一つの盆地で一体となって息づいてきたという

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