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大内宿・無用の徒、マタギサミット、山村のそば、大山祇神社、喜多方、淡水魚館、木地屋、母シカの手紙
 2013年6月29日(土)〜30日(日)、「第24回ブナ林と狩人の会 マタギサミット」が、福島県猪苗代町のレイクサイド磐光で開催された。マタギ関係者や研究者、学生など151名が参加。「今、東北の山々では何が起きているのか vol.2」をテーマに、報告と講演が行われた。

 あの福島第一原発事故から2年数か月、未だ収束の目途はたたず、15万人の方がふるさと福島を離れたまま・・・獲っても食べられない野生動物の増加、狩猟意欲の減退による猟師激減、放射能に汚染された野生動物の移動拡散など、狩人を巡る深刻な状況が報告された。(写真:猪苗代湖南から磐梯山方向を望む)
 福島で一番行ってみたい場所は「大内宿」だった。なぜなら「日本が捨てた宝物」を残すことによって、今や人口200人の村に、観光客が100万人以上も押し寄せる・・・その奇跡のドラマを知りたかったからである。その答えは、民俗学者・宮本常一氏の教え・・・「無用の徒」の効用にあった。

会津磐梯の旅(2013年6月28日〜30日)

 大内宿鶴ヶ城飯盛山(白虎隊)西会津野沢・大山祇神社(会津一円の山の神)蔵とラーメンの里・喜多方猪苗代湖南会津民俗館・野口英世記念館マタギサミット・レイクサイド磐光桧原湖いなわしろ淡水魚館
 大内宿について、「街道をゆく 白河・会津のみち」(司馬遼太郎)には・・・

 「江戸時代そのままのたたずまいだった。残っている規模が大きく、戸数五十四戸が、整然とならんでおり、どの家もよく手入れされていて、たったいま会津若松城から、松平侯の参勤交代の行列が入ってきても、すこしもおかしくはない。」と記している。
▲イザベラ・バードが泊まった名主「美濃屋」

 大内宿は、戊辰戦争の時、激戦の場となったが、名主・阿部大五郎の命を賭けた抵抗によって焼き討ちを免れたと言い伝えられている。その11年後、「日本奥地紀行」で有名なイザベラ・バードは、明治11年(1878)6月27日大内宿に泊まっている。

 「わたしは大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。村は山に囲まれた美しい谷間にあった。」

 彼女が泊まった家は、大内村の名主、屋号は「美濃屋」である。バードは、ここでブドウ酒を飲んだが、大内の人々はそれを「人間の血」と間違えて吹聴、語り継がれたという。
 大内宿・・・その「日本が捨てた宝物」の価値を説き、保存に奔走した立役者は、「壊さない建築家・相沢韶男(つぐお)」さんである。彼は、民俗学者・宮本常一氏が武蔵野美術大学に赴任した初期の教え子であった。
「無用の徒」が生んだ大内宿

 「宮本常一著作集2」に、「無用の徒」についての興味深い記述がある。

 「たとえば松尾芭蕉という人は、誰に頼まれたのでなくても、奥の細道を歩いたのです。時には宿屋で泊まるのを断られたりしたけれども、とにかくあるき廻って俳句をひろめています。連歌師の宗祇や宗長、宗牧にしてもみんなおなじです。また地方の人もそういう人を快く迎えて知識を吸収しました。

 ・・・優れた人たちがやってくることによって、その地方の文化が向上していくのであります。・・・要するに、これといった仕事を持たない、うろうろしている者がいて、これがただで飲み食おうという魂胆をもってくれたおかげで、地方が開発されている点が大きいのです。

 ・・・無用の徒が、もっともっと地方をぶらぶら歩き廻るということが、結局地方の皆さんの自立性を打ち立てる基になるんじゃないかと思うのであります。」
 そう言えば、秋田の文化を高めた「無用の徒」の代表者は、漂泊の旅人・菅江真澄であった。また、「旅する巨人」と呼ばれた宮本常一氏の人生そのものとも重なる。

 昭和40年、宮本氏は武蔵野美術大学教授に就任。その翌年、近畿日本ツーリストの支援を受けて日本観光文化研究所を設立した。言わば「無用の徒」を歩かせる組織であった。その一人に抜擢されたのが、大内宿の発見と保存に尽力した立役者・相沢韶男さんであった。

 待てよ、田口洋美先生も観文研の主任研究員として東日本各地のマタギ集落を旅している。まさに相沢さんと同じく「無用の徒」の一人であった。このドラマはおもしろそうだ。
 相沢さんが観文研に出入りするようになってから、瀬戸内海と佐渡を皮切りに全国を歩き回る「無用の徒」の旅がはじまった。初めて大内宿に足を踏み入れたのは、昭和42年9月(武蔵野美術大学4年)、税務署のジープをヒッチハイクして行ったという。

 スピーカーから「ドブロクづくりはやめましょう」と言いながら、初めて大内宿に入った。その時の感動を、次のように記している。

 「自分の目を疑う風景があった・・・とても昭和の世とは思えぬ雰囲気をもっている。江戸そのままと思いたくなる宿場であった。一日中写真を撮りまくった。」

 その一年半後、トタン屋根が少し目立つようになり、道路を拡げて舗装しようという計画が持ち上がった。遅ればせながら大内にも近代化の波が押し寄せてきた。彼は、必死になって村の人たちに宿場保存を訴えた。

 昭和44年6月、朝日新聞が「この宿場、残して!」の記事を全国版で取り上げた。さらに相沢さんは、同年「都市住宅12月号」に「大内調査報告と提案」という特集記事を書いた。家屋の配置と一戸一戸の間取り、宿場の鳥瞰図など・・・これが脚光を浴びるもとになった。

 しかし、興味本位に村を訪れる観光客に、村の人たちは困惑した。見学者の中には、誰もいない家を覗きこみ無断で家の中に入ったり、「電気はあるのですか、テレビは見たことがあるのですか」「村の人が野良着を着てショウでもやればいいのに」といった冷やかし半分の暴言もあったという。
 「観光客は家を覗き、野良にまで押しかけカメラに収まるポーズを要求したり、゛どんな食べ物を食べているのか゛などと問われ、まるで囚人同様だ。」「茅屋根の暗い家で一生終わるなんて、子孫からの非難を我々がつくることになる。」といった住民の声も記録されている。

 それでも相沢さんは、「茅屋根は、茅手の技術と結の労働交換によって維持されてきた。いわば村の力の結晶が草屋根なのだ。」という信念の下、町並み保存に向けて村、役場への粘り強い働きかけを行った。

 しかし、当時は、高度経済成長と所得倍増の時代である。よそから来た「無用の徒」が、古い茅葺き屋根を残そうなどと呼びかけても・・・村人は「余計なことをするな」「ホイト(物乞い)学生が何を言うか」「月に行く時代になぜ草屋根保存なのか」と猛反対されたという。
 こうした町並み保存を巡る対立は、昭和40年代後半から50年代前半にかけて、村を二分する激しいものであった。昭和48年大川ダム、昭和52年大内ダムの建設工事が始まると、住民はダムの補償金・建設工事の賃金収入を得て、家の改造と草屋根にトタンをかぶせる家が続出。昭和50年頃には、集落の半分がトタン屋根に変わっていたという。

 保存が危ぶまれる中、村の保存を政治生命にした大塚実町長の登場で、村の保存問題は急転・・・昭和56年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。指定後、多くの家が茅葺きに戻し、道路を覆っていたアスファルトもはがされ、近世宿場集落が復元された。
 宮本常一氏の教え「無用の徒が、もっともっと地方をぶらぶら歩き廻るということが、結局地方の皆さんの自立性を打ち立てる基になるんじゃないかと思うのであります。」・・・皆さん、「無用の徒」になりきって東北を旅しましょう。それが東北を支えることになると信じます。
疑問1:大内は火災にあわなかったのか

 大内宿の火災は、1711年7月7日に発生。戸数70戸余りに対し、焼失60戸と大部分を失っている。また1798年正月22日、問屋を含め13戸の火災が記録されている。しかし、その後200年以上もの間、火災なし・・・火災から村を守ってきた大内宿の「結の力」も見逃してはならないと思う。(「歴春ブックレット6 奥会津 大内宿」大塚実、歴史春秋社)
 疑問2:観光化による弊害で「がっかりした」「こうはなりたくない」との批判もあるという。そうした批判に対して、どう思うか・・・相沢韶男さんは、赤坂憲雄さんとの対談(別冊東北学VOL.7「座談会 大内宿 過去こそ未来」)でこう述べている。

 村の人たちは、これまで高冷地の不利な農業と出稼ぎのほか現金収入を得る道がなかった。現金がほしいと思ってこの100年生きてきた。現在、多くの観光客が訪れるようになって、村に居ながらにして現金が手に入るようになった。結果として、村人が残った。

 もし草屋根を壊してトタン屋根に替えたり、ダムの補償金で新築していたら、今頃は典型的な過疎の村になっていたと思う。

 大内にある小学校の分校には16人の生徒がいる。去年、ピカピカの一年生が5人も入った。人口200人の村に一年生が5人というのは、すごいこと。建物だけ残しても×。やはり親から子へ移していくものです。どんなに非難されようと、がっかりされようと、そこに欲望を抱いた生きた人間がうごめいていなければウソです。

 36年前の高校生が今の主力であることからも、やはり村を残して未来に伝えていくのは、常に子どもたちです。高齢化が進んで、子供たちがいなくなれば、技術も文化も伝承できない。何としてでも村で食っていけるようにすることがとても重要です。みんながそこで共に生きていることこそ重要なのです。
 「会津茅手の話は尽きない・・・歴史の表面には出てこなかった人たちの生活の一部が浮かんでくる。力弱い人たちは弱いなりに力を合わせて生きてきた・・・゛ゆい゛の労働交換組織や゛無尽゛にみられる村落共同体の相互扶助がそれを支えてきたのである。」(「草屋根・会津茅手見聞録」)

 苦しい時こそ・・・
 人と人をつなぐ、地域と地域をつなぐ、お互いに支え合い、助け合う
 そこから「希望」の光が見えてくる
第24回ブナ林と狩人の会 マタギサミットIN猪苗代
 第24回マタギサミットは、レイクサイド磐光で開催された。開催に先立ち、前後公猪苗代町長が歓迎のあいさつを行った。猪苗代町は、農業と観光の町で、特に「蕎麦の里」をアピール・・・ぜひ本場猪苗代のそばを食べてほしいとのあいさつが印象に残った。
山村のそば

 そばは、今でこそ田んぼの転作作物として盛んに栽培されるようになったが、昔はどうであったか・・・そばは、どんな荒地にも育ち、成長が早く、夏と秋の二度収穫できる(秋そばが美味い)。そばは肥えた畑で作るといつまでも花が咲き続け、美味しい実ができない。つまり、焼畑や山間高冷地の畑が適地であった。

 さらに実のまま保存できるので、飢饉の時の食料として保存された。焼畑でも、ヒエ、アワに次いでよく作られた。昔の切りそばは、手間暇がかかるから、盆や正月などの特別な日のごちそうの一つであった。普段は、殻をとった粒のままヒエなどと混ぜて炊いたり、そばかき、焼きもちにして食べた。
報告「野生鳥獣における放射能汚染の現状と対策」 福島県自然保護課 伊藤正一
 平成24年度放射線モニタリング調査では、野生鳥獣(イノシシ、ツキノワグマ、ニホンジカ、キジ、ヤマドリ、カモ類、ノウサギ)394検体中275検体が基準値(100Bq/kg)を超過した。超過した割合は約7割りに達している。中でもイノシシの核種濃度が高い。
 狩猟者の減少と高齢化が進んでいた中で、放射能問題が発生した。獲っても食べられないから、狩猟意欲が減退している。狩猟を巡る問題は極めて深刻。県では、捕獲したイノシシの買い上げを行う市町村に5千円/頭を補助したり、狩猟者確保に対する支援を行っている。
講演1 「福島の野生動物の放射能被曝状況および深刻化する猟師急減の影響」
奥羽大学歯学部 伊原禎雄
 空間線量は減衰しているが、野生動物の放射線量は減衰の傾向はみられないセシウムが生態系に取り込まれると、食物連鎖を介して循環するようになる。福島や近隣地域の野生動物のうち、一部の種では長期間、現在と同様の状況が継続するものと思われる。
 2012年度の狩猟期からほとんどの野生動物に対して自己消費の自粛が求められている。平成24年度の狩猟者数は、3年前の半数に落ち込んだ。このままでは、狩猟離れはさらに進むとみられる。

 避難区域のイノシシは、近づいても逃げない。駆除の圧力がなく急増、豚のように太っている。
 アライグマも急増し、避難区域がアライグマの供給源になりつつある。車両との事故も多発。空間線量が高く、ワナの設置もできない。このまま狩猟者が減少すれば、避難地域と類似した極めて深刻な野生動物との軋轢が各所で発生することが危惧される。

 生態系内に取り込まれた放射能を効果的に除去する方法はなく、放射能による野生動物への影響は長期に及ぶと考えられる。狩猟者を呼び戻すことは、かなり困難とみられる。狩猟者が少なくなると肯定した上で、いかに野生動物と向き合うか。本腰を入れて地域住民、行政、研究者一体となった取り組みが必要と訴えた。
講演2 「狩人の役割と未来 震災後の東北における狩猟文化の行方」
狩猟文化研究所代表、東北芸術工科大学教授 田口洋美
 マタギサミット24年間で何が変わったのか?

 1990年、会が発足した当時は、テレビで特集番組などが放送された日の深夜に、突然電話をかけてきて「動物殺し!」「可愛い動物を殺さないで!」などと罵声を浴びせられた。「マタギサミットがなかったら、とっくにやめていた」というマタギもいた。そういう意味では、当サミットでマタギたちを元気にできたと思う。

 かつては、マタギが仙人のように誤解されていたが、このサミットを通して現実のマタギ像を示せたと思う。少なくともマタギたちの団結力は示せたと思う。 
 後継者問題は、何も狩猟だけでなく第一次産業全体の問題。2011年、東日本大震災と福島第一原発事故が発生し、新たに放射能と野生動物問題が重くのしかかってきた。野生動物の放射能問題は長期化するだけでなく、移動、拡散する。それを防ぐのは不可能だから、この問題は福島だけの問題ではない

 同日開催されているペンクラブでは、「動物と放射能」をテーマに映画「福島 生きものの記録が上映された。監督は、秋田県男鹿市出身の岩崎雅典さん(72)である。被災地福島で、野生動物や家畜、ペットを1年かけて撮り続けた力作である。

 この映画の支援プロジェクトからのお願いには・・・「福島第一原子力発電所の爆発事故は、・・・野生生物と人間の境界を議論することに意味を持たなくなりました。人間・動物・植物の別なく、すべての生命が“大きないのちの環”の中にあることが、実に皮肉な形で示されつつあります。」と記されている。
 15年前までは考えられないことだが、里山、集落、街中、自宅の玄関でクマに襲われる。つい最近、福島ではクマに襲われ一人死亡。その場所はすぐ裏山だった。その遺体の収容作業中に、4人がクマに襲われた。

 富山県魚津市では、夜の9時頃、JR魚津駅近くの公園をツキノワグマが歩いていると消防に通報があった。クマは同公園から近い民家敷地内に入り込んだところで、同県警魚津署員と地元猟友会のメンバーらに取り囲まれ、夜の10時半頃、猟友会の発砲で射殺された。

 長野駅を横断したクマもいた。クマは、堂々と車道を横断している。我々が野生動物になめられている。山に圧力が及ばなくなったために、クマの人身被害は里型化、秋期に多発している。

 放射線量の高い野生動物の拡散を防ぐには、福島県だけではコク・・・山形県蔵王では、500ベクレルのイノシシが捕獲されている。一頭でも出れば、出荷制限になる。一県だけの問題ではないから、汚染地域を囲む持続的、組織的な狩猟圧の行使が必要。南奥羽と北関東の広域保護管理区域の設定など、広域的な連携が必要であると訴えた。
▲放射能検知デモンストレーション 500g対応機器

 秋田県北秋田市阿仁で捕獲されたクマ肉を使って放射能検知デモが行われた。結果は、ほとんどゼロ・・・秋田は安全なのでほっとする。 
 マタギサミット本命の交流会・・・その乾杯の音頭をとったのは、全国マタギの本家・北秋田市阿仁猟友会松橋光雄会長(左の写真)。交流会の途中で地元「いなわしろ天鏡太鼓」の力強い演奏が披露された。
▲山釣りの大御所・瀬畑雄三翁と仙北マタギの戸堀操さんを囲んで記念撮影

 右から二人目は、マタギサミット初参加の鈴木直樹さん。彼は、秋田を代表する銘酒「秀よし」の蔵元代表。もちろん銘酒を持参して交流会に献上したが、ごちそうになる前に空っぽになっていた。残念!・・・酒は味もさることながらネーミングが一番・・・今度は、秋田を代表する「マタギ(又鬼)」「岩魚」「山釣り」というラベルの銘酒をつくってほしいのたが・・・。

 左端の女性は、ヨガインストラクターの高松晶子さん。瀬畑翁に騙され(?)山菜、キノコ、果てはテンカラでイワナを釣ったら中毒になったとか・・・やはり「イワナ遊ぶ桃源郷」は恐ろしい。写真を撮り損なったが、茨城・渓友亭の竹濱さん、ジンさん、シモさんの3名とも出会い、楽しい交流会になった。けれどもまたまた飲み過ぎて二日酔い状態・・・反省、反省であった。
マタギサミットは、来年25周年の節目を迎える。その次回開催地は・・・
被災地三県を回るという当初の方針を貫き、来年は仙台市(宮城県)で開催することが決まった。
会津一円の山の神「大山祇神社」
 「会津の狩りの民俗」(石川純一郎、歴史春秋社)によれば・・・

 「会津一円において祭る山の神は西会津町野沢字大久保に鎮座の大山祇神社で、講中の代参も行われている。・・・猟師の信仰する山の神は大山祇神(おおやまつみのかみ)はじめ狩猟神たる日光権現および猟師の祖神たる万治萬三郎または猿丸猟師である。

 その由緒は当地ヤマサキなどが所蔵する゛山立根本之巻゛ならびに゛亦儀巻物゛に説かれている。」
  大山祇神社の祭りは、6月1日から一ヶ月の長期にわたる祭りで、会津地方はもとより新潟からの参拝者が多い。参拝者はオコゼという海の魚を奉納したりする。オコゼは山の神の好物とされ、奥会津の山の神にもしばしば奉納されていることもあった。

 野沢の山の神には、講中を組織して参拝する風習が続いている。南会津只見町田子倉や石伏など、シシヤマと呼ばれる共同狩猟組織では山の神信仰が強く、「山先(ヤマサキ)」と呼ばれる山の神を祀る家柄があり、狩猟組織の頭を務めてきた。山先は秘伝の巻物を所持し、厳粛に山の神を信仰して獲物を授けられてきた。野沢はそうした山の神の聖地であるという。
▲展示「会津北方の自然と文化」(喜多方蔵の里)

 「会津の狩りの民俗」(石川純一郎、歴史春秋社)には、秋田マタギ衆の遭難についての記述がある。

 黒谷川上流域には、地元の猟師ばかりでなく、秋田マタギがアオシシ猟に来ていた。黒滝川の支流継滝沢と大幽沢西沢の枝沢道木沢に「秋田衆小屋場」と称する岩窟がある。

 安政年間以前のことだが、秋田マタギ衆が小幽沢のトイノクチ沢にも小屋をかけ、十数人が寝泊まりして猟をしたおりに、この場所には滅多に出ない表層雪崩が会津朝日岳から崩れ落ちて小屋を襲った。・・・以後、秋田マタギは訪れなくなった。
蔵とラーメンの里・喜多方
▲喜多方蔵の里

 敷地内には7つの蔵と二つの茅葺民家があり、この地方の暮らしと文化の特徴を知ることができる。特に蔵の中に展示されていた「会津北方の自然と文化」を興味深く拝見した。
▲旧手代木家住宅

 野口英世の生涯を描いた映画「遠き落日」のロケは、この茅葺民家を利用して行われたという。
▲喜多方ラーメンの生みの親「源来軒」の醤油ラーメン(600円)
いなわしろ淡水魚館
▲会津ユキマス ▲カワマス
▲イトウ ▲ヤマメ
▲外来魚・ブルーギル ▲外来魚・コクチバス
▲黄金色のニジマスはアルビノ個体

 「アルビノ」の解説板には・・・「1955年、長野県水産指導所で飼育中のニジマスから黄金色をした稚魚が突然変異で生まれた。その後改良を重ね現在のアルビノになった。」
▲我が愛すべきイワナたち

 展示では「エゾイワナ(アメマス)」となっていた。エゾイワナは、一般に北海道に生息するアメマス系イワナのこと。斑点は無着色斑点が特徴だが、展示されていたイワナは、赤系の濃い着色斑点を持っていた。釣り人に言わせると、ニッコウイワナあるいはヤマトイワナと呼ぶのだが・・・真相や如何に。 
会津の木地屋(喜多方蔵の里)
▲展示「会津北方の自然と文化」(喜多方蔵の里)

 木製品のうち、ワン、鉢、盆、しゃくし、ひしゃく、木皿類を作る人を「木地屋」「木地師」と呼んだ。木地屋の元締めは、近江の小椋村で、そこで出した文書を持っていた。その文書とは、国内のどこの山に行くことも、その山で自由に材料の木を切ることも許すというもの。マタギの巻物と同じで、その多くは写しの偽物であったという。

 1590年、近江の蒲生氏郷は会津若松に移された。その時近江の木地屋たちを連れてきたのが会津木地屋のはじまりと言われる。木地屋は山中に住み、ロクロを用いて木地物を作ることを生業としていたが、同時にそれを商品として売る行商もやらなければならなかった。
▲耶麻郡の木地小屋分布図  ▲ろくろ盤

 木地屋は一か所に定住することは少なく、良材を求めて方々へ移動していった。山を歩いて木地に適した立木があるところを見つけると、木地小屋を掛けた。木地物の材料は、ブナ、トチ、ケヤキ、クリが多かった。東北の木地屋は会津を中心にしており、そこから東北六県の各地へ出かけて行った。

 明治時代になると、偽の文書で勝手に山に入ることができなくなった。故にそれまで仕事をしていた山の近くの村に入れてもらったり、木地屋の仲間で村をつくったりした。
 木地玩具やコケシつくりは、宮城県白石市弥治郎集落と、同県蔵王町新地集落でよく作られた。弥治郎集落の近くには鎌先温泉、新地集落のそばには遠刈田温泉がある。このように木地挽きのかたわら、温泉近くに住む者がみやげとして、木地玩具やコケシをひいた。

 昔は、山を移動しながら人の集まってくる温泉で木地物を売るというスタイルは、秋田の旅マタギと似ている。耶麻郡の木地屋の展示では、こけしのふるさと弥治郎生まれで熱塩村に移住した佐藤春二氏のコケシが展示されていた。
▲漆の栽培と「漆かき」 ▲漆の木

木地屋と漆

 木地物は、汚れたり痛みやすい。その弱点を矯正するために漆を塗った。漆は、漆の幹の皮に傷をつけておいて、そこから出る樹液をとる。漆は仏像などにも用いられ、湿気の多い日本では長期間使用に耐えた。こうして木地屋たちは漆かき・塗師と結びついていった。秋田県湯沢市稲庭川連漆器なども同様であろう。
▲桧原湖
▲まぼろしの滝 ▲小野川湖

母シカの手紙 (野口英世記念館)
 小学生時代、偉人伝「野口英世」は、何度も読んだ記憶がある。彼が幼い頃、やけどを負った囲炉裏がそのまま保存されていたのには驚いた。しかも民家まるごと保存され、保存状態も極めて良好であった。
記念館で最も感動するのは・・・やはり「母シカの手紙」である。
展示されていた「簡単な訳文」

「お前の出世にはみんな驚きました。私も喜んでおります。
中田の観音様に毎年、夜篭りをいたしました。
勉強をいくらしてもきりがありません。

鳥帽子という村からのお金の催促には困ってしまいます。
お前が戻ってきたら申し訳ができましょう。
春になるとみんな北海道に行ってしまいます。
私も心細くなります。

どうか早く帰ってきて下さい。
お金を送ってもらったことは誰にも聞かせません。
それを聞かせると、みんな呑まれてしまいます。

早く帰って来て下さい。
早く帰って来て下さい。
早く帰って来て下さい。
早く帰って来て下さい。一生の頼みであります。

西に向いては拝み、東に向いては拝んでおります。
北に向いては拝んでおります。
南に向いては拝んでおります。

ついたちには塩断ちをしております。
栄昌様についたちには、拝んでもらってます。
何を忘れてもこれは忘れません。
写真を見ると拝んでいます。

早く帰って来て下さい。
いつ帰れるか教えて下さい。
この返事を待っています。寝ても眠れません。」
 昭和28年、故高碕達之助氏が当地を訪れた際、母シカの手紙に感動した話・・・
 これまた胸を打つ感想文である。

 極めて稚拙な筆で精一杯努力して書かれたこのたどたどしい手紙には、天衣無縫の母の愛が一字一字に、にじみ出ていて、照合しつつ読んでいくうちに、私はとめどもなく涙が出て困りました。

 極貧の農家に生まれて、幼いうちに両親に別れ、信心深い祖母の手一つで育てられたシカ女、七歳で他家に雇われ、終日子守や野良仕事に追い廻され、人が寝静まってから月明かりに指で木灰にいろはを書き習ったと云われる彼女、

 想像も及ばぬ辛苦を重ねつつも、ひたすら観音の教えを信じて逆境に耐え抜いたこの母が、博士の成功を祝し、その身を案ずる真心で書き綴ったこの手紙は正に鬼神をも泣かしめる天下の名文と云えましょう。時あたかも初秋、湖畔に佇んでこの文を読み、子を思う母の至愛に切々として胸を打たれた次第でありました。

 国破れて以来、人心荒廃、ややもすれば、忍苦の底に光るこの無限の愛の貴さが忘却されようとする今日この頃、図らずもこの偉大な心の資源に触れて近来になく心強く感じました。
 「日本一美しいサムライの国」だったがゆえに、日本一悲しい歴史を持つ会津。さらに東日本大震災、そして福島第一原発事故という未曽有の文明災に見舞われた。そんな中、逆境を乗り越えて新しい明治の時代を切り拓いた新島八重は「ハンサムウーマン」ともてはやされている。

 野口英世記念館では、「もうひとりのハンサムウーマン 野口シカ」の特集展示がなされていた。彼女は、新島八重とは対照的に歴史の表舞台に出てこなかった「もうひとりのハンサムウーマン」そのものである・・・「ガンロウ!福島」
参 考 文 献
「宮本常一とあるいた昭和の日本16東北B」(田村善次郎・宮本千晴、農文協)
別冊東北学VOL.7「座談会 大内宿 過去こそ未来」(相沢韶男×赤坂憲雄)
「歴春ブックレット6 奥会津 大内宿」(大塚実、歴史春秋社)
「会津の狩りの民俗」(石川純一郎、歴史春秋社)
「イザベラバードの会津紀行」(赤坂憲雄ほか、会津学研究会)
「街道をゆく 白河・会津のみち」(司馬遼太郎、朝日文芸文庫)
「山に生きる人びと」(宮本常一、未来社刊)
「山の道」(宮本常一、八坂書房)

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