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田麦俣・多層民家、阿仁マタギ・松橋富松、大鳥、特別講演会、交流会、マタギサミット、鷹匠・松原英俊
 2005年6月25日〜26日、「第16回ブナ林と狩人の会〜マタギサミットinあさひ〜」が山形県朝日村で開催された。今回は、直木賞作家・熊谷達也さんらを講師に招き、特別講演会が行われた。テーマは「21世紀、むらはどう生きて行くのか」・・・。

 サミット前後に、どうしても訪れたい場所があった。それは、滝太郎の里・大鳥や田麦俣の多層民家、そして雪深い山峡の生業・日本最後の鷹匠と呼ばれる松原英俊さんにお会いすることだった。(写真:秋田・仙北豊岡の戸堀マタギと田麦俣の鷹匠・松原夫妻)
田麦俣の多層民家、阿仁マタギ・松橋富松、六十里街道
 田麦俣の多層民家「旧遠藤家住宅」

 岩魚を追って何度か八久和川や湯井俣川を訪れたことがあった。しかし、隠れ里のような田麦俣は、いつも素通りだった。初めてマタギサミットに参加した際、農民鷹匠の伝統を継承している松原英俊さんがいるとの情報を知った。この時、「最後の鷹匠」と言われた秋田県羽後町上仙道の武田宇市郎さんや土田力三さん、山形県真室川町の沓沢朝治さんで最後と思っていただけに驚きだった。 
 「兜造り」・・・多層民家は、妻側から見ると、屋根の形が武者の兜をかぶったように見える。

 田口洋美先生の旅マタギを追う研究成果をベースに誕生した小説、それが直木賞作品「邂逅の森」である。「東北学VOL3 列島開拓と狩猟のあゆみ(田口洋美)」に記された阿仁のマタギ・松橋富松に関する概要は、以下のとおり。

 大正の終わり頃、山形県朝日村田麦俣集落周辺に、阿仁の松橋富松マタギが入った。当初は阿仁鉱山の関係から鉱山労働者だったが、その後、鶴岡市内に住み、クマの胆の行商などをしていた。昭和23年、彼は新潟県山北町山熊田の若者を連れて、新潟県関川村の胎内にクマ狩りの遠征をしている。その後、胎内の狩人や山形県小国町長者原の猟師組と親交をもち、胎内に頻繁に通った。
 「月山は古くから阿仁の旅マタギがカモシカ猟に入っていた山であり、近代に入ってからは肘折温泉を拠点に猟を展開していた。また福島山形県境の飯豊連峰も阿仁のマタギの猟場であり・・・この飯豊連峰と尾根つづきである胎内も深いかかわりを持っていた。・・・松橋富松によって朝日村の八久和や大鳥の猟師組の土台が築かれたといっていい」「東北学VOL3 列島開拓と狩猟のあゆみ(田口洋美)」 
 多層民家の三階から水車小屋を望む。一階は家族の居住用、二階は下男たちの居住用と作業場・物置、三階は主に養蚕として利用された。
 猿子渡りの図。田麦俣は、庄内と内陸を結ぶ六十里越えの要路にある。湯殿山信仰が盛んになるにつれて、宿場的性格を帯び、藩政時代には番所も置かれた。
 左:日本の滝百選・七ツ滝 右:出羽の古道「六十里街道」・・・かつては湯殿山への参拝道として賑わった千二百年の歴史を持つ古道。近年は、トレッキングブームで賑わっているという。秋田県東成瀬村と岩手県胆沢町を結ぶ仙北道は、人の背(背負子)で荷物を運んだ古道で道幅は狭いが、この古道は、牛馬が楽に通れるほど広い。
 山上の棚田・・・田麦俣の林道を走ると隠れ田のような棚田が点在していた。
滝太郎の里・大鳥
 大鳥川を遡り、雫が滴る真っ暗なトンネルを二つ越えると、まもなく最奥の滝太郎の里・大鳥字高岡集落に着く。
 左:タキタロウ館の入り口に立つ鳥獣供養碑。
 右上:タキタロウ館内部。滝太郎文庫と朝日連峰に生息する動物の剥製が展示されている。
 右下:地下に入ると、大鳥池の謎の巨大魚・滝太郎の模型。大型水槽には、尺前後の岩魚が飼育されていた。
 立て看板には、タキタロウの謎に魅せられた記事のコピーが所狭しと並べられ、大岩魚を釣り上げた写真パネルが飾られている。釣り師なら、こんなものを見せられると、大物へのロマンで血が騒ぐに違いない。だが現実は、そう甘くない。
 滝太郎伝説(写真:八久和川水系の大岩魚)・・・明治18(1885)年「両羽博物図譜」の岩名の項に「大物を滝太郎と言い5尺・・・」とある。昭和9(1934)年、閘門工事の作業が行われたが、ほどなく大鳥池の水面が波立ち、雲を呼んで嵐となった。それが何日も続き、工事が進まなかった。仕方なく許可を得てダイナマイトを投げ込む。すると二尺から三尺もある滝太郎が数尾水面に浮かび上がった。

 「大鳥池に棲む偉大な滝太郎は山麓民の水神信仰の象徴-竜神の化身そのもの・・・無暗にイワナを捕ると竜神・滝太郎の逆鱗に触れて池が荒れ、大洪水を起こすという禁忌伝承につながったのだろう。そうした゛滝太郎信仰゛は、少なくとも昭和初期までは余韻を残していたが、やがて本義が失われ、外部の歪曲したイメージが重複した結果、遂には何か特殊な魚であるかのように姿を変えた」(「渓流魚と人の自然誌 山漁」鈴野藤夫著、農文協)
「マタギサミット開催記念特別講演会」(13:00〜 朝日村すまいる大集会室)
 「マタギたちの未来」熊谷達也(作家)・・・マタギの特徴は、
@ 去年、クマの出没が相次いだ。汚れ役はマタギに頼るしかない。
A 自然との共生共死、その知恵を一番持っているのがマタギ
B 山岳救助のエキスパート。いつも先頭を歩くのは、山を熟知したマタギ。
C マタギがいたからこそ、計り知れない自然を残しているようにも思う。その根底には、マタギたちが抱く「獣と俺は同じ」という感覚、だから東北は、差別に対して音痴。被差別部落を定着させなかったのは、マタギの存在が大きい。僕の感だが、東北は差別を解体、融和しちゃったように思う。
 マタギを取り巻く問題は、
@ 後継者不足。食えるようにならないと、後継者の確保は難しい。
A モラルハザード、倫理崩壊。一部のモラルが悪いハンターがいると、一般の人たちは、マタギも含めて悪いイメージを持ってしまう。

 何を未来に求めるか・・・快適で便利さを求めたら、マタギの未来はない。俺には、快適さ、便利さなんていらねぇよ。いっそのこと、マタギの独立国を作ったらどうか。
 ロビーでは熊谷達也さんの本が販売され、買うと直筆のサインがもらえる。僕もサイン欲しさに直木賞・山本賞受賞第一作「荒蝦夷(あらえみし)」を買い、サインをもらった。
 「マタギの里、秋田県阿仁の試み」と題して小松武志さんが講演した後、最後に今年東北芸術工科大学の教授に就任した田口洋美先生が講演した。

 昔の狩猟は最高だった。中には、「クマ御殿」と呼ばれる家もあった。しかし、70年安保以降、公害問題が深刻化し、自然保護、動物保護の声が大きくなる。狩猟人口は、1970年代、54万人のピークに達したが、ゴルフブームの到来で、鉄砲からゴルフへ変わる。そして若者は都会へと流出。

 気がついてみると、周りはサルだらけ。先人の遺産である田んぼは草茫々・・・どうしたら村に若者を取り戻せるのか、もう一度巻き返したいとの思いからマタギサミットをスタートさせた。山で生きていこうとする意志を持った人たちは、男であろうと女であろうとマタギと呼びたい。僕が東北芸術工科大学に来る決心をしたのは、僕が育ててもらった村に若い学生を送り込み、若い人材を育てるのが主な目的。若い人たちを育てない限り、村の明日はない。
マタギサミット交流会(16:00〜 湯殿山ホテル)
 工藤朝男実行委員長のあいさつ。工藤さんは、大鳥高岡で工藤朝男商店を営むかたわら、マタギ文化研究所顧問、大鳥地区山岳救助隊長、同地区観光協会会長を務める。ヘリコプターで岩魚を放流した話がおもしろかった。
 朝日庄内森林環境保全ふれあいセンター川村一憲所長の乾杯で交流会がスタート。早めに切り上げるつもりだったが・・・まさか朝の2時を過ぎるとは・・・お陰で翌朝行われた湯殿山神社本宮参拝に行けなかった。残念!無念!
 左:右が阿仁猟友会長の吉川将祥さん、左が大鳥の工藤朝男さん
 右:左端が仙北豊岡マタギ三代目シカリ・鈴木隆夫さん、右端がお助け小屋管理人・戸堀操さん。真ん中は慶友社のお姉さん?

 工藤朝男さんの岩魚放流記・・・東大鳥川の支流・西ノ俣沢は、入り口から滝が連続する険谷で、岩魚は生息していなかった。今から十数年前、大鳥池の取水工工事でヘリコプターが使われていた。土地改良区に頼み込み、仕事の合間をぬってヘリコプターを借用。放流魚は、在来の岩魚を飼育して増やした30匹ほどの稚魚。

 ヘリの下に岩魚の稚魚を入れ、西ノ俣沢を飛ぶ。できるだけ穏やかな源流部をめざすも、上空からだとなかなか放流適地が定まらない。やっと見つけた放流地点で下降し、水面スレスレの所で稚魚を入れたケースの蓋をパカッと開け放流したという。今では岩魚の楽園とか・・・しかしその谷に入り込めるのは上級者に限られる。

 ちなみにこの沢の岩魚探検に挑んだのは、あの瀬畑雄三翁。工藤さんからヘリ放流の秘話を聞いた翁は、枡形川支流岩魚沢を詰め、西ノ俣沢に入った。そこは岩魚天国・・・さらに西ノ俣沢右岸の小沢を詰め、山を越えて大鳥川に抜けたという。
 6月26日・・・マタギサミット「狩猟の新しい流れ:若者の声を聞く」
 「山形おぐに渓流地図」・・・小国山岳会と小国猟友会(佐藤実会長)が約20年の歳月をかけ、千百近い沢の名前を集約した渓流地図。地図には、過去に秋田のマタギも訪れた「秋田ノ小屋場」「秋田ノゾミノ平」などの地名も表記されている。マタギ文化の広がりや歴史研究の資料としても価値がある。もちろん、山岳遭難者の捜索やマタギの後継者育成にも欠かせない。

 縮尺二万五千分の一、カラー、三枚組6,000円。問い合わせは、電話・FAX0238-64-2411 小国町猟友会会長佐藤実さんへ。
 「尾瀬での試み」橋本幸彦(財団法人尾瀬保護財団)

 ツキノワグマの出生率は、太平洋側ではミズナラの結実量と、日本海側ではブナの結実量と相関が見られた。凶作の年は、共倒れを防止するため流産するという。
 尾瀬におけるクマ問題・・・ヨシッ掘田代地区では、平成11年と平成16年6月、ほぼ同じ時間帯(午前8時半頃)に人身事故が発生。見晴地区では、クマが山小屋・キャンプ場周辺から離れない。山ノ鼻地区では、平成15年以来、山小屋周辺に居座り、廃油やアイスクリームをあさっていたという。
 現在とられている対策・・・警鐘を設置し、クマに人間がいることを知らせて避けさせる。これは、クマ避け鈴を鳴らしながら歩くのと同じ。クマが動き回る朝晩の巡視(6月3日〜20日)。

 猟友会にお願いしたいこと・・・経験に基づくアドバイスと学習放獣・有害獣捕獲の際の補助
 「北海道西興部村の試み」伊吾田宏正(NPO法人西興部村猟区管理協会)

 明治期のエゾシカ・・・1880年頃、記録的な大雪と乱獲により絶滅寸前まで減少。
 その後の保護政策や天敵であったオオカミの絶滅、暖冬、生息地の改変により個体数が増加、生息域も全道へと拡大した。
 エゾシカの増加に伴い、農林業被害額がピーク時50億円(平成8年)に達した。また、エゾシカによる列車事故、交通事故は、ともに千件を超えている。
 害獣から資源へ・・・鹿肉、角、皮の利用や狩猟資源として活用する方策を探る。鹿肉解体処理施設(運営:村養鹿研究会)をつくり、鹿料理は村営ホテルのメニューになった。
 平成16年10月、NPO法人格を取得し開猟。一日の入猟者数を制限し、地元のガイド同伴を義務付けている。捕獲頭数は、2日間で一人2頭まで。入猟承認料とガイド料を徴収し運営。昨年の実績は、狩猟セミナーを含めて延べ44名。スタートしたばかりだが、まだ一人分の給料さえ生み出せていない。役場の臨時職員等をしながらやっているのが現状。
 狩猟セミナーの実施・・・初心者ハンター、ハンター予備軍を対象に実施。エゾシカの生態、獲物の探し方から解体・料理まで。狩猟技術の総合的・実践的な実習を行い、狩猟技術の蓄積と普及に努めている。
 
 村内の子供たちを中心にエゾシカやヒグマなどの野生動物に関する環境教育やライトセンサスによる個体数指数調査、捕獲個体調査、狩猟文化調査、山スキーの製作研究などを行っている。
 パネルディスカッション・ 総合討論

田口洋美・・・マタギサミットをはじめた当初は、自然保護団体は敵という感じだった。しかし今は、そうした人たちの参加や理解、若い人たちにも共感が得られるようになってきた。一方、動物の専門家は重荷のような存在だったが、専門家が自ら猟をするように変わってきた(本日講演した橋本さんは、昨年狩猟免許を取得)。

熊谷達也・・・最近、遺伝子の支配力の強さを感じている。人類の歴史からみれば、狩猟採集の時代が遥かに長く、僕たちの体そのものが狩人の遺伝子を持っている。山熊田の春熊狩りは、苦しくて行きたくないのだが、春が近づいてくると血が騒いでくる。家族でさくらんぼ狩りに行くと、妻も子供も夢中で採っている。これは採集の遺伝子があるからだ。

 山人は、里から奥山へ入るときは、獣の領域へ畏れを抱きながら入った。都会化された人間は、そうした山入りの作法を忘れている。林道からポンと、都会化された人間のまま山に入る。クマに食われてもしょうがないように思う。
工藤朝男・・・かつてマタギサミットの会場で「今の時代、なぜクマ肉を食べなきゃならないのか」という質問が出たことがあった。その時はびっくらこいたが、今は、それほどの人はいなくなった。有害駆除の肉はまずい。春のクマは、胆のうも大きく、肉も美味い。捨てるところなく利用するという点では、春クマ狩りが効果的だ。

 後継者がいないのは悔しい。もう一軒しか残っていない集落もある。「腹八分」・・・器には入る量に限界がある。八分ぐらいでちょうどいい。観光客が増えたからといって、次々とホテルを建てれば、いずれ減った時に閉鎖の憂き目にあう。足るを知ることが大事。
熊谷達也・・・ちょうどいい按配にやれば心が落ち着く。狩猟は快楽だと肯定していいと思う。今の子供たちは、死というものを見たことがない。生き物が死ぬ瞬間を見せる必要がある。飼っていたニワトリを殺し、料理して食べたら、卒業させるくらいのことが必要なのではないか。

田口洋美・・・スーパーでパック詰めされた魚や肉を買うのは、生き物の殺しをお金で買っているのと同じ。しかし、そういう自覚がない人間が増えてしまった。「山は半分殺してちょうどいい」・・・ そういう感覚は僕らにはない。そうした感覚は真似ることができない。

橋本幸彦・・・岩手と秋田のベテランマタギと一緒に調査したことがあるが、彼らの言葉は重みが全然違う。言葉は経験によって重くなっていくように思う。

伊吾田宏正・・・1200人の村でハンターは6人しかいない。けれどもベテランの会長がいるから、いつも教えてもらっている。やはり言葉の重みが違う。足跡を見ただけで、どんな獣で何歳ぐらいかまで瞬時に分かる。それは土地に根付いた技術だと思う。昨夜の交流会では、「30年やって、まだマタギになれていない」という人もいた。

 最後に、田口洋美先生が、「カンパするつもりで、西興部村へ行こう」と訴えた。
雪深い山峡の生業・・・日本最後の鷹匠・松原英俊さん宅訪問
 マタギサミット終了後、僕と戸堀マタギは、仲間より早く松原さん宅にお邪魔した。まだ英俊さんは帰宅していなかったが、奥さんが笑顔で出迎えてくれた。奥さんは、遥か向こうの山を指差し、あそこの山小屋で暮らしていたこともあるんですが、結婚を機会に、この古民家に引越した旨のお話をしてくれた。今年は大雪で・・・と話していると、まもなく英俊さんが帰ってきた。初対面にもかかわらず、快く記念撮影に応じていただき、図々しくもお家の中へ。
 プロが撮影した鷹狩りの写真を眺めながら、松原さんの話を伺う。羽後町上仙道の故武田宇市郎さんも彼の山小屋に二、三度来たことがあるという。今年は大雪で、何と4mを超えたとのこと。和賀山塊のクマタカやイヌワシの話などをしていると、マタギサミットの仲間6名がやってきた。

 学生と名刺交換している時、松原さんは、「僕を卒論のテーマにしている学生が同じ大学にいますよ」と、嬉しそうに言った。その話に僕が驚くと、すかさず松原さんは「実は、僕も卒論で鷹匠をテーマにしたんだ」と・・・その卒業論文のテーマは「鷹狩りの歴史」。
 古民家三階の飼育舎。中は薄暗く、野生のクマタカ、イヌワシを飼育するには最適な環境のように思う。多層民家をうまく利用している点に感服。
 秋田「鷹匠の里」・・・左の写真は、羽後町上仙道桧山集落の狩猟碑。鷹匠として活躍した三浦親子を称え、碑に刻まれている恒吉の甥の土田林之助さんが昭和35年に建立したもの。右下の写真は、鷹匠の里・桧山集落。背後の山が鷹狩りをした出羽山地。

 鷹匠の里は、仙道川沿いに点在する集落の最も奥地に位置する。戸数16戸、耕作面積はわずか4反歩。山峡の村の歴史は、厳しい自然と対峙しながら貧困と凶作との闘いであった。田畑だけでは食べていけない悪条件が鷹匠という伝統習俗を生み出した。その数45人。 
 上仙道桧山集落で「最後の鷹匠」と呼ばれたのが故武田宇市郎さん(平成4年死去、77歳)である。僕は、かつて彼を14年間もカメラで追い続けた野沢博美さんの写真集「鷹匠」をベースに「最後の鷹匠」のHPを編集したことがあった。この時、不覚にも松原さんの存在を知らなかった。

 昔の武士やレジャーとして行われているタカ狩りは、ハヤブサやオオタカを使って鳥類をとる。一方、獲物を生活の糧にしてきた仙道の鷹匠は、それよりはるかに大型のクマタカを慣らし、野ウサギやテン、タヌキなど獣類の狩りをしてきた伝統猟法だ。つまり、同じ「鷹匠」でも両者は全く違う。
 漫画家・矢口高雄さんは、農民鷹匠の起源について次のように記している。「公家の遊戯や武家の権力の象徴として発達してきた鷹狩りが、東北の山間農民に伝承された歴史的背景は・・・例年厳しい年貢を課す武家たちの鷹狩りを、うらみをこめて、じっと垣間見ていた農民たちが、見よう見真似で、その技を盗み・・・やがて武士に対抗するように、彼らよりもはるかに大型のクマタカを用い、あくまでも肉を食い、毛皮を得る手段として勇壮かつ豪快な鷹狩りを完成していったのではあるまいかと、ボク(矢口)は思う」(ニッポン博物誌1「イワナの恩返し」矢口高雄著、講談社)・・・だから、武士の「鷹匠」と混同しないためには、「農民鷹匠」と呼ぶ方がふさわしいように思う。

 山形県真室川町の故・沓沢朝治さん(右の写真)は、「真室川の鷹匠」として全国に知られ、故武田宇市郎さんも、一度沓沢家に泊まり、鷹狩り談義に夜を明かしている。松原英俊さんは、1974年、その「真室川の鷹匠」の門をたたき、鷹狩りを生業とする日本最後の鷹匠となった。しかも、電気もない、ガスもない、水道もない山小屋で自給自足の生活を12年も続けた鬼才でもある。
 空の王者・クマタカ。山岳地帯の深い谷間の森林に生息。全長70〜80cm、翼を広げると1.5m、体重は2〜4キロ。4km先の獲物を見つける視力と、時速200キロの飛行力をもつ空の王者である。そのクマタカを育て、訓練するには忍耐と長い経験が要求される。狩りのシーズンともなれば、鷹を持って雪山を20km、時には40kmも歩く。一人前になるには、最低10年は必要とされ、さらにまるで儲からない仕事だ。

 プロが撮影した一枚の写真・・・雪が降り続く中、クマタカをカケに止まらせ雪山を歩く鷹匠の雄姿は、実に格好いい。見るものを感動させる。カメラマンなら本能的に撮りたくなる。卒論のテーマに選んだ学生が羨ましい。・・・この摩訶不思議な感覚は、作家・熊谷達也さんが言った「狩りの遺伝子」・・・都会生活の中で眠っていた狩猟採集の遺伝子が騒ぐからだろうか。
 熊鷹文学碑(秋田県羽後町五輪坂)・・・農民鷹匠・武田宇市郎さんをモデルにした故・藤原審爾先生の小説「熊鷹・青空の美しき狩人」の一文を刻んだ熊鷹文学碑。その碑には、「草も木も鳥も魚も/人もけものも虫けらも/もとは一つなり/みな地球の子」と刻まれている。

 この一文は、特別講演会で熊谷達也さんが言っていた言葉と重なるものがある。・・・『マタギたちが抱く「獣と俺は同じ」という感覚。だから東北は、差別に対して音痴だった。被差別部落を定着させなかったのは、マタギの存在が大きい』

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