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鳥海マタギと百宅、平家落人伝説、スカ汁、講演・全体討論、法体の滝、鳥海修験と国史跡「鳥海山」、本海獅子舞番楽・・・
 2011年9月3日(土)〜4日(日)、第22回ブナ林と狩人の会:マタギサミットin鳥海が、秋田県由利本荘市「フォレスタ鳥海」で開催された。当初は、岩手県遠野市で開催する予定であったが、東日本大震災の影響で一時は中止の危機にあった。マタギたちの熱意と、秋田県の由利連合猟友会(会長、松田美博)創立60周年を記念して、急きょ鳥海山麓で開催することになった。

 鳥海山麓地域は、鳥海マタギの里「百宅(ももやけ)」や鳥海修験、獅子舞番楽など民俗文化の宝庫である。今から10年余り前、田園空間博物館構想「鳥海山麓地区」を担当したことがあった。

 今回、改めて歩いてみたら、その構想に基づいて設置された看板に数多く出会い、心底嬉しく思った。それだけに、開催地周辺をくまなく歩き撮影を繰り返した。その画像と、由利連合猟友会創立60周年記念誌、鳥海町史、村上鳥海支部長の話などをベースにまとめてみた。

▲田園空間整備事業で設置された看板・・・左から百宅「マタギの里案内板」「伝統芸能案内板(本海獅子舞番楽)」「 木境大物忌神社境内と道者道」案内看板

鳥海マタギの里「百宅(ももやけ)」
▲百宅から鳥海山を望む

 百宅は、四囲を山に囲まれた標高約400m・・・山岳地帯の盆地にある。早朝、上直根から杉峠を越すと、濃い霧に包まれた百宅盆地に出る。細長い盆地は、意外に長く広い。正面に聳え立つ神の山・鳥海山が朝焼けに染まり、神々しい絶景に息をのむ。

 百宅は、古くからマタギ集落としての伝統を保ち、かつては「鳥海の桃源郷」と称えられていた。ここには三組のマタギ集団があった・・・金五郎組(下百宅)、文平組(下百宅)、七蔵組(上百宅)である。
▲鳥海マタギの巻物「山達根本之巻」(由利連合猟友会創立60周年記念誌より)

 マタギには、日光派(天台宗系)と弘法大師(空海)伝説の高野派(真言宗系)がある。鳥海マタギは日光派に属している。ちなみに阿仁マタギも大半が日光派である。矢島側の修験道は、真言宗当山派に属している。また、百宅には弘法大師伝説が多く残され、高野台という地名も残っている。これから推察すると、マタギの巻物は高野派になるのだが・・・

 「鳥海町史」によると、貞観3年(861年)、岩手県南部の菅原仁左衛門という狩猟の名人が百宅に来て、池田実之八に「山達根本之巻」の秘巻を伝授したとの伝えがあり、これが百宅マタギの祖と言われている。また、上の秘巻にも巻末に「奥州南部」の文字があり、南部とのつながりが推定されている。

由利郡のマタギ・・・百宅、上直根、中直根、下直根、猿倉、上笹子、下笹子、小友の各集落

 鳥海マタギとは、鳥海地域のマタギ組の総称である。ちなみに上笹子には、丁川の奥・水無、野宅で構成するキャンジキヅラマタギや、甑(こしき)川の奥・皿川、砂子、西久米などで構成する皿川マタギの組があった。今の甑峠は、かつて「山伏峠」と称していたという。
▲広大な田んぼが広がる百宅盆地

平家落人伝説

 平家の残党は、最後の決戦地となった壇ノ浦に近い九州に最も多い。しかし、なぜか東北にも平家の落人伝説をもつ村は少なくない。いずれにも共通する点は、里人とは少し違った暮らしをしていたことである。ちなみに、マタギの里として有名な阿仁町根子集落も、平家落人伝説がある。

 百宅は、俗世間から離れた山岳地帯の盆地にあり、狩りを生業とする伝統的なマタギ集落であることや、修験道が伝えた本海獅子舞番楽、独特の食文化など、昔から言語、風俗、文化の様相が、他の地と異なっていた。それ故に、古くから平家落人の隠れ里といわれ、今でも村人たちの中に語り継がれている。

 平家伝説のある所は、たいてい水田が開けている。多くの落人は、平地に住んでいた頃、米を食べていたからであろう。それ故に、山中の隠れ里に住むようになっても水田を開きやすい場所に定住したと言われている。現在の百宅盆地に広がる広大な水田を眺めていると、一見、里人が隠れるには理想的な地であるように見えるが・・・
▲元滝伏流水
鳥海山の湧き水は「氷河水」とも形容されるほど冷たい
農業用水としては、水が冷た過ぎて「冷水害」をもたらす水であった
上郷温水路群(にかほ市象潟町)・・・鳥海山麓地域では、夏でも摂氏10度前後の冷水を入れざるを得ず、冷水害は、最大のガンとして、古来その対策に腐心してきた。それを克服したのが、日本初の温水路群である ボツメキ湧水(由利本荘市東由利町)・・・3年に1度は冷害に見舞われていた。昭和19年、下流にため池を築造し、水温を5度以上上昇させたことにより、5割の増収を獲得した。

 百宅の田んぼは、標高の高い山岳盆地に位置している。さらに鳥海山麓の冷水では稲の実も熟さなかったであろう。昭和9年の凶作では、80haの水田が冷害で全滅している。農業だけではなりたたない村であることが分かる。また村上鳥海支部長によると・・・

 百宅は、冬になれば完全な陸の孤島と化す。里から肉や魚を買って来ることなど考えられない。動物性タンパク質と言えば猟で獲った獲物だけであった。従って農業と冬場の猟が主な仕事であった。ウサギの内臓はもちろん、皮や耳も食べた。冬場のどぶろくのツマミは、タニシを干して保存していたツブ貝の干物を食べるなど独特の食文化を持っていた。
▲そっくり取り出した内臓を鍋で煮る。その臭いこと臭いこと・・・ ▲まさに「内臓の姿煮」。目の前に置かれた時はビックリした。 ▲骨はナタと包丁でたたき、団子状にして鍋に入れる。ウサギたたきは嫁の仕事だった。
▲ウサギのスカ(内臓)料理(由利連合猟友会創立60周年記念誌より)

 ウサギの内臓をそのまま煮込む料理を「スカ汁」と呼ぶ。これは百宅に限らず、鳥海地域全域で食べられていたという。特にクロモジの芽や皮を餌にしているウサギは、クロモジの香りがして美味い。鳥海では「内臓食わねば、ウサギを食った気がしねぇ」という。

宮本常一「平家谷」

 人が結婚して子を産み家系を伝えていくには、少なくとも50戸〜100戸の婚姻関係を持たねばならない。それほどの家が圏内にあれば他の地域から妻を迎えたり、嫁にやったりする必要はほとんどなくなる・・・平家谷といわれる所はたいていそのようにして完結した通婚圏を持ったところで、他の地域との通婚の少なかったところである。
 百宅の戸数はどうか・・・宝暦6年(1756)には24戸、天保5年(1834) 39戸、明治9年(1876) 46戸、昭和55年 81戸と推移している。この統計を見る限り、昔から百宅だけで完結する通婚圏を持っていたわけではない。しかし、鳥海町史には・・・
▲春グマ猟の一場面。後ろの大木の穴にご注目。
(由利連合猟友会創立60周年記念誌より)
▲春グマ猟の獲物を前にして。鳥海支部三浦俊雄さんは後列左から4人目。

 「近世には矢島領に属しているが、鳥海山南麓の八幡町日向、升田と姻戚関係を持っていた特殊な村落であった」・・・常識的に考えると、通婚圏は矢島領側であるはずが、山形側と姻戚関係を持っており、旧鳥海町にして、「特殊な村落」と言わしめている。これはどうしてだろうか・・・

 かつて百宅マタギの熊の猟場は、実は秋田側ではなく山形側の最上山一帯が主であったという。村上鳥海支部長によると、カモシカを追い掛けて山形県側へ入ってしまい帰れなくなった人がいる。やむなく鉄砲を売り、汽車で帰ってきたという。鳥海山南麓でクマやカモシカ猟を行っていた百宅マタギが、升田の人たちに気に入られて婿養子になったり、嫁をもらったりという姻戚関係ができるのはごく自然なことであると語ってくれた。
▲弘法大師が修業した洞窟・・・この洞窟の前には清流が流れ、修業するには格好の場所であろう

 百宅は、弘法大師にまつわる伝説が多い。821年、平安時代初期の名僧空海上人(弘法大師)は、湯殿山詣での後、この地を訪れ、「ゆうに百宅の人が住める所」と言ったことから、百宅の地名がおこったと伝えられている。また、大師が修業したという洞窟や衣干しの岩があり、高野台という地名も残っている。

 こうした伝説は、鳥海修験者によって広められたものであろう。
 ここにも山の神信仰をもつマタギと修験道の深い関係を垣間見ることができる。
▲朱ノ又沢源流の断崖に懸る滝を望む
▲手代林道沿いのブナの巨木 ▲手代林道より上玉田川上流部を望む ▲鳥海山百宅口

鳥海町史「鳥海マタギ」より抜粋

 熊の猟場は、鳥海山をはじめとする庄内山、石蓋狩山、明神山、雁唐山、加無山から丁山にかけての最上山一帯で、全山峨々として峻しく、熊の格好の住み家である。狩りの行動基地となる岩屋を、マタギ言葉で「スノ」という。特に最上山の大スノは、50人も泊れるほどの広さがあり、火を焚くと中は暖かくなって寒中でも裸でいられるほどだという。
▲鳥海マタギの猟場の一つ丁岳周辺図

 スノの奥の方に山の神を祀り、その近くにシカリが座る。出掛ける朝早く「スノ祝い」という儀式をやる。シカリを上座に一同両側に並ぶと、里から持参した煎り豆と昆布を少しずつ手渡してやり、配り終えると例のオソを立てる。「トウタイ(尊い)、トウタイ山の神様」と唱えながら豊猟を祈り、初めて出掛ける山について語り合う。

 射止めた熊は、その場で皮を剥ぎ取るようなことはまずなく、獲物を背負ったり、引っ張ったりして峰や谷を越して山を下りる。大きいものは150kgくらいもあり、運ぶのに苦労するが、それでも獲物を捕ったマタギたちは勢いがよく、疲労の色は見られない。帰りの時は、家族や村人たちが酒や握り飯を持って出迎えた。

 撃ち取った熊の解体儀式を「タチ」という。熊の頭を北にして仰向けにする。使った猟具は全て南側に立てる。シカリが小刀を熊の口元に立てて四肢をそれぞれ四人の者に押さえさせる。剥いだ皮は、熊の体へ頭と尻を反対にしてかぶせる。そして熊を成仏させ引導渡すために呪文を三回唱える。

 最初に心臓と腎臓を取り出し、挟み串で焼いて藁で「皿結び」という皿形をこしらえてそれに載せ、山神に供えて拝む。切って手渡しでマタギたちに分けられ、オソを吹いて一斉にいただく。儀式が終わると、大きな鍋で骨ごと刻んだ肉を味噌煮して大皿に山盛りし、豪勢な酒宴が催される。昔は二日間も飲み明かしたという。

 以前マタギの家では、常備薬としてたいてい熊の胆を保存しておいた。しかし、よほど重い病気でもない限り飲まなかった。以前はよく阿仁方面からも熊の胆売りが来たが、マタギたちは本物かどうかを見分けるコツを知っていた。削った小片を容器の水に落として見て、クルクル回って落ちないものは偽物だなどといったものである。
▲熊山(春)
(由利連合猟友会創立60周年記念誌より)
▲熊の搬送

百宅マタギと熊撃ち名人 金子長吉氏」(鳥海支部長 村上貞次郎)要旨

 金子長吉氏は、百宅マタギの熊撃ち名人で、昭和36年より狩猟をはじめ、熊捕獲数54頭。約半年にも及ぶ冬の間、狩猟を生業とし、熊、ウサギ、テンなどの動物を捕獲し、毛皮などを売っての収入が主体であった。肉は、家族のタンパク源として貴重なものであった。

 昭和30年代後半は、春山での熊狩りが主体で、百宅では上組、下組の各10名による2班編成。金子氏が最初に捕獲した熊は、昭和37年、鳥海山麓の赤崩沢での大熊であった。主な狩場は、手代沢奥地で山形県境、特に三滝山付近に熊が多かった。マタギ特有の掟と伝統を受け継いだ金子氏の話は、聞く人に熊の畏怖と尊厳を感じた。
百宅(ももやけ)そば

 マタギの集落に伝わる百宅(ももやけ)そばは、山麓の「霧下そば」と呼ばれている。いつも霧がそば畑に下りるから、特に美味いと言われている・・・8月下旬の早朝、直根から峠を越えると、百宅は一寸先が闇のように濃い霧に包まれていた。霧に霞む沢筋のそば畑は、まさに「霧下そば」そのものの風景であった。
百宅の新そばのつゆは、近くの渓流で豊富にとれるイワナを焼いて干したものを使った。
まろやかな出汁と新そばの香りがぷんと鼻をつき絶品だったという。

冬になると、山鳥、キジのガラで出汁をとった。
そんな記録を読んでいると、昔と同じ出汁を使った「百宅マタギそば」の復活を期待したいのだが・・・
猿倉人形芝居と百宅

 猿倉人形芝居の創始者・池田与八は、百宅の出身である。本格的な巡業を開始した明治中期頃は、池田与八の出身地にちなんで「百宅人形」とも呼ばれていた。その後、彼の弟子の真坂藤吉が猿倉の出身であったことから、「猿倉人形芝居」と改め定着したという。

 また、百宅歌舞伎もあった。明治時代には、盛んに上演され、町内はもちろん矢島町でも演じたという。出しものは、忠臣蔵、奥州安達ケ原、阿波の鳴門、仙台萩、源平合戦など。歌舞伎役者の中心となった梶原新吉の死去に伴い次第に衰え、昭和10年代に姿を消したという。百宅という地は、文化程度が極めて高いことに驚かされる。
第22回マタギサミットin鳥海
▲田口洋美狩猟文化研究所代表・東北芸工大教授 ▲松田美博由利連合猟友会会長

由利連合猟友会創立60周年記念誌、発刊にあたり(松田由利連合猟友会会長)要旨

 戦後間もない昭和26年、由利連合猟友会が誕生。当時は、戦後の食糧難の時代で、先達たちは動物性タンパク質等の補給に貢献した。また、銃の取り扱いや動物の生態、狩りの作法、解体から料理の仕方まで、私たち若輩者に身をもって教えてくれた。この方々の名前を後世に残し、「技」を次世代に伝えることが我々の責務である・・・
記念講演:大西尚紀(森林総合研究所東北支所)

クマハギ被害

 ツキノワグマによるスギ、ヒノキなどの樹皮剥ぎを「クマハギ」と呼ぶ。クマハギの被害木は、木材の変色による商品価値の低下や枯れて倒れるなど、深刻な問題となっている。被害を防止するためには、まずどのようなクマがクマハギ被害を起こすのかを知る必要がある。そこで、クマハギ被害木に付着した体毛から遺伝子を抽出し、加害個体の特定を行った。

 その結果、その地域に生息している全てのクマが被害を起こしているのではなく、特定の家系が被害を起こしていることが明らかになった。子グマは、生後約1年半、母グマからクマハギ行動を学習していると考えられる。一方、クマハギをしない母グマから生まれたクマは、クマハギを学習する機会がなく、成長してもクマハギ行動はみられない。
ツキノワグマの保護管理ユニットの策定

 ツキノワグマは、県境をまたいで頻繁に移動する。故に、行政区界による保護管理単位は、クマにとって有効ではない。実際にクマがどのように地域間で交流しているかを、遺伝解析により明らかにし、保護管理ユニットの策定を行っている。今年は秋田県の全域から資料提供をしてもらった。

 本州全域および四国のツキノワグマの個体群から標本を集め、ツキノワグマの遺伝的な特徴を解析した。その結果、日本には大きく3つの系統が存在することを突き止めた。東日本グループと西日本グループを分ける境界は琵琶湖であり、本州紀伊半島と四国で南日本グループを形成していた

 南日本グループと西日本グループの個体群では近年の孤立・小集団化により遺伝的多様性が低下していた。東日本グループの中でも、東北地方では遺伝的多様性が低く、その原因は氷期に小さな個体群に分断されたことにより遺伝的多様性が低下したためと考えられる。

 さらに、日本のグループはアジア大陸のグループと系統的に大きく異なっており、今から30〜50万年前に大陸から渡ってきた後、3つの遺伝グループに分岐したと推定される。
九州のツキノワグマは絶滅したのか?

 1941年以降確実な生息情報はなく、絶滅した可能性が高い。
 1987年11月に大分県で1頭のオスが捕獲されたが、犬歯の摩耗状態から飼育下にあったことが疑われた。そこで、博物館で保存されていたクマの組織から、ミトコンドリアDNAを抽出。これまでに集めた日本全国やアジアのクマの塩基配列と比較した。

 その結果、このクマの配列は福井県から岐阜県にかけて局所的に分布しているクマと同じタイプと判明。中国地方に分布するクマは全く異なるタイプのため、人が捕獲して持ち込んだか、その子孫以外に九州に存在する可能性は考えられないと判断した。だとすれば、1957年(幼体腐乱死体目撃)以来、50年以上も生息情報がないことになる。
▲クニマス標本オス・・・全長25.3cm、採集年月日・1925年(大正14年4月1日、仙北市田沢湖資料館) ▲クニマス標本オス・・・全長26.8cm、採集年月日・1930年(昭和5年9月12日、仙北市田沢湖資料館) ▲2010年、山梨県西湖で捕獲されたクニマスの標本

 「絶滅」と評価するには、一般に「過去50年前後の間に、信頼できる生息の情報が得られていない種」。つまり、九州のツキノワグマは、50年以上も生息情報がなく、「絶滅」した可能性が高い。

70年前に絶滅したクニマスの事例 (生きていたクニマス)

 1940(昭和15)年、日本一深い田沢湖に玉川の酸性水が導水され、固有種「クニマス」ほか田沢湖の魚全てが絶滅した。その後、50年以上捕獲例がなかったことから、環境省のレッドリストでは1991年に「絶滅」と評価した。しかし、2010年、70年ぶりに山梨県の西湖で発見され、大きな話題を呼んでいる。
▲メインのマタギサミット交流会

今回、戸堀マタギから仙北豊岡熊マタギ・鈴木隆夫三代目シカリの悲報を聞いた
彼とは、和賀山塊堀内沢のマタギ小屋で偶然出会いイワナ釣りを共にしたこともあった
マタギサミットには、10年ほど欠かさず参加していたし、時には彼の車にも同乗させていただいた

以前、堀内沢のマイタケ採りに同行させてもらう約束をしていたが、それもかなわなくなった
戸堀マタギは、胸のポケットに生前の写真を忍ばせていた
「隆夫シカリには、こんな形だども、マタギの交流会に参加してもらえればと思って・・・」
▲在りし日の鈴木隆夫シカリ・・・和賀山塊堀内沢マタギ小屋にて(後列左端) ▲202年11月、鳥獣供養碑28年祭にて(後列左から二人目) ▲2002年6月、第13回マタギサミットin栄村にて(右端)
▲2005年2月20日、仙北豊岡マタギ三代目シカリ襲名披露にて・・・伝統ある豊岡マタギの三代目シカリとしての決意を語る鈴木隆夫氏 ▲2007年6月、第18回マタギサミットin東京。東京大学弥生講堂にて(後列右端) ▲2009年6月、第20回マタギサミットin阿仁。和賀山塊のマタギ小屋が今もなお健在であることを報告、感謝の意を述べる鈴木隆夫シカリ・・・

全体討論、意見交換会

岩手県の情報、熊とシカ、イノシシの侵入・・・
・ 三陸ではこの度の大津波で銃を流された人が88名もいる。津波で流れされたということは、車から銃を盗まれるのと同じ扱いになるという。つまり初心者扱いで猟ができないという事態が発生している。改正を要望しているが・・・今後は、陳情あるいは署名でバックアップしていく必要がある

・ 7月に入って、熊の出没が頻繁に起きている
シカが増えたことで、熊がシカを襲うケースが増えている
・ 熊は、カモシカも含めて、肉食化している

・ 熊がシカを待ち伏せして襲うシーンのビデオ撮影もある
・ 従って、シカが増えると熊が増えるという
シカの食害は深刻・・・早池峰山固有種のハヤチネウスユキソウが、シカの食害で2〜3年後には絶滅するだろうと危惧されている

・ 既に秋田にもシカが侵入しているという(松田会長がシカの写真を持っていた)
・ 山形には、既にシカとイノシシが侵入。イノシシが秋田に入るのも時間の問題。入るとすれば、雪の少ないにかほ市から侵入するだろう
外来種・ハクビシンが急増して困っている。その駆除方法を教えてほしい。

放射能と野生動物
・ 一般に草食動物の影響が大きい。中でも土を掘り返して食べるイノシシが一番危ない
・ 骨から出汁をとらない。煮こぼすなどの対策が必要。
・ いずれにしてもウサギやイノシシは体内被曝しやすい。警戒しておいた方が良い。
きのこ、ブルーベリーが汚染されやすい

福島産キノコ、出荷停止相次ぐ(新聞報道)

 秋の味覚キノコは、放射性物質を吸い上げやすいとされ、全国有数の出荷量を誇る福島県で出荷停止が相次いでいる。野生のキノコでは、土から発生するチチタケやマツタケ、ホンシメジなどの菌根菌のキノコが出荷停止となった。また、汚染された原木やおがくずも汚染原因になると懸念されている。これじゃ、野生のキノコ狩りも×ではないか。

熊に回虫が・・・
・ 温暖化の影響なのか、熊にソウメンみたいな回虫がでている。脳までいっているものもある。
・ 国立感染症研究所で検査中。クマの生肉を食べて感染したことがあるトリヒナ(旋毛虫感染症)ではない。
・ 野生の中で何かおかしな変化が起きている。専門家につなぎ、調査研究に協力、社会貢献していく必要がある。

来年の開催地は、岩手県遠野市に決定!
 被災地の猟師仲間たちの現状は、相当厳しい。岩手の猟師を元気にするために、マタギサミットの参加者をできるだけ多く募りたい。
▲映画「釣りキチ三平」で実際に使われた巨大イワナの模型展示(フォレスタ鳥海のロビーに展示)

伝説の巨大イワナ・・・夜泣き谷の怪物は、体長1.5m
撮影でアニマトロニクスという技術により、実在に近いイワナの模型を製作
この技術とCGによって、よりリアリティある映像が可能になったという
映画「釣りキチ三平」ロケ地・・・法体の滝
「夜泣き谷っていうところはね、まさに秘境と呼ぶにふさわしい渓谷だそうで、
美しいイワナの宝庫、イワナの楽園だって・・・
夜になると静まり返って、せせらぎの音しか聞こえない・・・

でも、何かの拍子に、例えばキジが夜の静寂を引き裂くように鳴き出す
すると、それに呼応して今度は野猿が鳴く
やがて谷全体が鳴いている様にざわめき、山々にこだまする・・・

そんなとき、そいつは現れた」
夜泣き谷の怪物だ!
法体の滝は、映画「釣りキチ三平」のクライマックスシーン・・・
身の丈は5尺もある大岩魚・・・あの夜泣き谷の怪物を釣るシーンを撮影した場所である
流長100m、三段総落差57.4m、滝幅3〜30m、滝壺の広さ約30a

法体の滝の名の由来

 弘法大師(空海)がこの地を訪れた時、この滝で修業したと伝えられている。修業の際にこもったと伝えられる「弘法洞穴」や「衣干場」といわれる白い岩場もある。滝を上から俯瞰すると、高僧が身にまとう法体と呼ばれる法衣に似ていることから「法体(ほったい)の滝」と呼ばれるようになったという。

 「法体の滝」の名の由来から、滝を神聖視していることが分かる。神聖な滝にうたれる滝行は、神々との交流であり、みそぎ、清めとなる。その力をいただき、不屈の行者に生まれ変わる修行と言われている。いずれにしても滝は、昔も今も「パワースポット」の代表である。


猟場見学及び法体の滝で昼食
▲鳥海支部長の村上貞次郎さんの案内で猟場を視察 ▲法体の滝で昼食・・・大内支部の猟師で巨大魚をヤスで突く名人がいた。彼は、この巨大な滝壺に潜り大イワナを突こうとしたという。やはり奇人変人、兵はいるものだと感心させられた。
法体の滝を眺めながら、オニギリと特製「マタギピザ」をいただいた
心づくしのおもてなし・・・ありがとうございました
鳥海修験と国指定史跡「鳥海山」
▲矢島口祓川(5合目) ▲猿倉から鳥海山を望む

 鳥海山は、標高2,236mの独立峰・・・荘厳な山容は、神の鎮まる山として信じ仰がれ、度重なる噴火は畏怖と畏敬の念となって、古代から大物忌神として崇拝されてきた信仰の山である。

 物忌(ものいみ)とは、穢れを嫌い、身を慎み清めること。 かつて、北東北は大和朝廷に従わない蝦夷の住む国であった。度重なる鳥海山の噴火は、その蝦夷の反乱の前兆と考え、大物忌に供え物をして「鎮祭」を行った。北方を征服する国の守護神として大物忌神をまつったとされている。

 大物忌神は、噴火の度に鎮祭が行われ、神階が上がった。それは、鳥海山の霊験を借りて他を支配し、勢力を拡大するための象徴として利用された。

 中世には修験道の霊場としてその地位を確立し、近世には独自の鳥海山信仰を推し進めた。山麓の登拝口がある集落では、修験集落として多くの宿坊が栄えた。その中でも勢力が強かったのは、秋田県の矢島・小滝・滝沢・院内、山形県の遊佐町蕨岡・吹浦の6集落である。(国指定史跡:平成21年7月23日)
森子大物忌神社境内(由利本荘市森子)

 本山派(天台宗京都聖護院が本山)滝沢修験組織の活動拠点で、大物忌神を祀っている。一ノ鳥居から社殿まで、約300段の急峻な石段が築かれている。一帯は杉林で日中でも薄暗い。社殿が見えてくると、石段脇の杉も巨木となり神々しい雰囲気に満ちてくる。
▲神楽座跡 ▲護摩壇跡
 石段を登り切ると、その左に道者道と呼ばれる「鳥海山滝沢口」がある。鳥海山二合目の木境を通り、山頂の大物忌神に至る滝沢口登拝道の起点になっている。
 社殿右には、修験の聖地にふさわしい樹齢500年以上の神木がある。
木境大物忌神社境内(由利本荘市矢島町木境)

 鳥海山福王寺を学頭とし、当山派(真言宗醍醐三宝院が本山)逆峰の矢島修験組織の活動拠点である。鳥海山二合目にあたる木境大物忌神社は、重厚な茅葺屋根が目を引く。鳥海山を祀る神霊を勧進し、五穀豊穣、国家安穏を祈念した社で、明治以前は「薬師堂」と呼ばれていた。

 木境神社に集合した衆徒の修行は、世俗とはほど遠い地獄道そのものであったという。冷水に浴し滝に打たれ、日に登山数回、食を断って山頂での修法、日に千把の柴を刈る作業など、その厳しい修行に耐えかねて逃避する者さえあった。その者は発見次第、殺害されたと伝えられている。

 その修法に耐え、修行をなしえた者には十二階級の院坊号が授与された。これが世にいう鳥海山修験十八坊である。
▲鳥海山福王寺(由利本荘市矢島町) ▲茅葺屋根の龍源寺(由利本荘市矢島町)

 鳥海山福王寺は鳥海修験の中心的役割を果たした。江戸時代の矢島修験は、鳥海山修験十八坊をもち、福王寺はその総取締役である学頭をつとめた。
▲魚形文刻石(由利本荘市矢島町龍源寺)

石には魚が二尾並んだ状態で描かれ、一尾はサケの特徴をよく表している
魚形文刻石は、別名「さけ石」とも呼ばれ、縄文時代中期、約4千年前のものである
サケの成仏と豊漁を祈ったものか・・・いずれにしても魚好きにはたまらない遺物である
金峰神社境内(にかほ市象潟町小滝)

 金峰神社は、登拝道の起点である小滝口にある。小滝集落は、かつて修験者が数多く居住し、各地から来る道者たちを世話し、鳥海山へ導く宿坊集落であった。鳥海山大権現と蔵王権現を祀っていたが、明治の神仏分離令・修験禁止令により、金峰神社として再編された。

 参拝ルート・・・金峰神社〜奈曽の白滝〜拝み松〜霊峰〜鉾立〜鳥ノ海〜鳥海山大物忌神社
▲金峰神社の真向かいに奈曽の白滝(落差26m)がある

 金峰神社の真向いに奈曽の白滝があるが、その滝は神と下界との境界線と言われている。小滝村には、1200年の伝統をもつ延年チョウクライロ舞(国重要無形民俗文化財)や小滝番楽が伝承されている。
▲鉾立山荘
▲奈曽渓谷 ▲ハクサンシャジン ▲鳥海山鉾立登山口

宮本常一「霊山登拝の宿」

 山を愛しつつ山を恐れ山を尊んで生きた人は多い。そしてその山に登りそこで身の限りの苦労をし、それに打ち克つことに喜びをおぼえた人たち、その苦労に打ち克つことによって一般の人より優れた力を持っていると信じた人たち、それが早くから日本の山岳地帯を漂泊し続け、高い山や険しい山の麓に住みついてその山をまつり、その山に登拝した。そういう山が至る所にあった。

 この人たちの歩いた道はほとんど踏み立て道であった。その道がいつの間にか踏みかためられて、大勢の人の通るように仲間を増やしていく。つまり一人一人が私物化するのではなく、仲間にも分かち与えることによって平和な世を作ろうとする意図がこの人たちにあった・・・

 山伏修験の徒は今日から見るともとは極めて多かった・・・宗教は何でもよかったようで、信仰と呪術だけを持っていた。そのことが明治維新の際の廃仏毀釈にあたって・・・多くの草山伏たちはそのまま民間に埋没して一般の農民になっていった。

 しかし、彼らの築きあげた信仰遺産、門前町の大半は風雪にたえて今日に残った。そしてそこから山を愛し山に登ることを喜びとする人たちの育って来る緒を作った。(山伏修験は、日本の登山のパイオニアであった・・・鳥海山もまた然りである)
▲「フォレスタ鳥海」の白肌ブナ ▲ブナ林を縫うように流れる石積み水路「貝沢・才ノ神堰」(「フォレスタ鳥海」) ▲鳥海山に自生していたリンドウを改良した「鳥海リンドウ」の産地(由利本荘市鳥海町)
本海獅子舞番楽(国重要無形文化財 平成23年3月9日指定)

 秋田県の中でも鳥海山麓一帯には、番楽、獅子舞が圧倒的に多い。1600年代、京都の修験者・本海行人が鳥海・矢島地域に居住し、本海獅子舞番楽を鳥海山麓一帯に広めたと言い伝えられている。本海流では、最初に必ず獅子舞を舞う。獅子舞と番楽は不離一体のものとして伝承されている。

 旧鳥海町では、かつてマタギ集落であった百宅、直根など13の講中で伝承し、本海獅子舞番楽と呼んでいる。獅子舞番楽は、鳥海修験の信仰と結びつき、獅子頭そのものを権現様・ご神体と見なしていた。そのため人々は獅子頭を「お獅子様」と呼んでいる。

 つまり、本海流では、舞台芸能の番楽より、修験的な行事を取り入れた獅子舞を重んじる。それがために番楽だけの一人歩きは許されず、必ず獅子舞がなければならないとされている。獅子は、舞うことによってはじめて大きな霊力を発揮する。修験者の獅子舞は、その強い霊力を借りて、さまざまな祈祷を行った。それは、信仰を具現化する宗教的な芸能であったことが伺える。 
鷹鳥屋獅子踊り(岩手県遠野市)

 岩手県を中心に周辺にも広がっている獅子踊りは、シカを意味しているという。それは、シカを狩りして食べなければ生きていけない人々が、その霊を弔い慰めるために始めた芸能であると言われている。

宮本常一「狩の祭」

 もともとクマもシカもイノシシも山民にとっては重要な食料であり、神からの賜り物であった。アイヌのクマに対する考え方は決して害獣でもなければ敵でもなかった。熊は山の神の姿であった。・・・その山神をまつるものとして熊祭があった。

 東北地方の山中を歩いていると、もとは小さな村でもよくシシ踊りがおこなわれていた。このシシは唐獅子ではなく鹿が多かった・・・シシは神格化せられていて、決して人間の敵ではなかった・・・唐獅子の系統もまたその初めは東北のように神々の遊びを象徴したものではなかったろうか・・・

 野獣の中に神格を認めたのは、野獣が人間に幸福をもたらす要素を多分に持っていたからであった。このようにして山中の民は狩りを行いつつもクマやシカやイノシシを決して害獣とは考えていない歴史をその初めにもっていた。そして、山を畏れ山を愛し山に生きたのであった。

参考文献
「由利連合猟友会創立60周年記念誌」(平成23年3月、由利連合猟友会)
「鳥海町史」(昭和61年11月、鳥海町)
「山の道」(宮本常一著、八坂書房)
「秋田県の歴史散歩」(山川出版社)
「国重要無形民俗文化財 本海獅子舞番楽」(由利本荘市)
由利本荘市観光ガイドブック「四季彩」(由利本荘市)

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