想い出の源流紀行A
 

1989年夏、3泊4日、堀内沢初遡行の記録(秋田県角館町)

 堀内沢は、朝日岳(1376m)、大荒沢岳(1313 m)を源流とする「マンダノ沢」と、和賀岳(T440 m)、小杉山(1229m)を源流とする「八龍沢」の豊富な水を集めて、玉川に注いでいる

 全長、およそ10kmにも及ぶ流域にはまるで石器時代の石斧のような奇岩が多く、失われた過去へタイムスリップしたような気がしてくる。突然原始人が現われても、なんら違和感のない光景だ。

 本流であるマンダノ沢は二又で直角に右折していること、八龍沢の方は文字通り龍のように屈曲しているところをみると、本来人間が近づくべき場所ではない「聖域」 のような気がする。天狗ノ沢、八龍沢、蛇体淵、ワ二奇岩などと名付けられたのも素直にうなづけるから不思議だ。

 秘境ムードが漂う渓谷・・・。頭の中を駆け巡る様々な想い。地図を見る度、想いは遥かな渓谷の中へ・・・。

 増水に阻まれながらも 1日目

 雨あがりの山々に霞がたなびき、次第に夜が明けてくる。発電所の取水ロに車をとめ、いざ出発。時間は午前4時55分。
 さっきまで降り続いた雨で、川は増水している。見た目には普通だが、実際に川へ入ると、すぐに腰までくるので気がぬけない。

 ルートを二度もまちがえて、1時間のタイムロス。盗伐林道は右岸側から山側へゴルジュ帯を高巻くルートになっており、崩壊した道路や、角ばった巨大な落石等が遡行の困難さを物語る。

 1キロほどでコザイ沢との合流点にたどり着き、軽い食事をとる。長旅に備えてのエネルギー充電だ。
 2キロ地点。いよいよ沢へ下降開始。ワイヤーを伝って一気に降りる。大岩にぶつかって砕け散った水が白泡となって流下していく光景は、まさに圧巻。見る者を威圧するような迫力がある。

 大物のいそうなポイントが連続し、竿を出したい衝動に駆られる。が、先を急がなければならない。大淵は全て高巻かなければならないし、増水のため腰までつかりながらも、慎重に進む。

 大自然は偉大な芸術家

 午前8時30分。
 右岸から流れ込む朝日沢に出合う。地形が急峻なためかブナは少なく、ヒバばかりが目につく。ここからシャッチアシ上流まではゴルジュ、大淵が続くため、左右に巻きながら遡行。急流部の危険箇所にはマタギ用のワイヤーが張られていた。

 次第に太陽が顔を出し、暗いゴルジェ帯前方がスポットライトを浴びたように浮かびあがり、白泡が輝いている。
 午前10時。
 ワニ奇岩到着。4 m滝の中央に突き出した岩は、左岸側からみるとカバにみえるが、側からみるとやはりワニに似ている。突きでた大岩の先端に草が生え、ヒゲのようにも見える。

 「これだば小学生さ、名前つけさせればえでにゃが」
 角度や見る人の心模様によって、様々な姿に変身する不思議な岩だ。

 右岸をきわどくへツル。ただでさえ危険なのに、重い荷を背負っているのだからたまらない。バランスを崩せばこちらが岩魚の餌食になってしまう。
 三点確保の基本を忠実に守り、やっとの思いで上流へ。あくまで安全なルートを辿るのが、我々の基本姿勢である。

 少しずつ渓が明るくなり、青緑色の透明な水がキラメいている。渓の中央に、流れを二分するように巨大な岩が立っている。その、氷河に侵食されたような様な三角錐の岩は、まさに氷河期が残した遺産「岩魚」にふさわしい岩峰である。不思議なことにこの岩のすぐ上流に老木が立っていた。三角錐の老木が渓の流れの中に根をはっているらしい。足元には大男根そっくりの岩まで立っている。

 三角錐の岩から40分。休まずに歩いたため思ったより早く二又に到着。ここまでの行程7時間。増水とルートミスに阻まれたとはいえ、やはり気の抜けないコースである。

 二又下流右岸にテントを設営。急峻な渓谷をいっきに流れ下った水がここで合流し、凄まじい音がブナの樹間にこだまする。苔むした大岩、張りだした緑の枝葉、白泡と透明感溢れる生命の源-ー。大自然は、創作意欲がとどまることのない偉大なる芸術家だ。

 壮大なスケールの中で竿を出す

 午後2時30分。
 いよいよ戦闘開始。私と会長はマンダノ沢へ。
 ゴーロの連続と増水で、ポイントの状況はもうひとつ。最初にアタリがあったが、小型のためか餌をとられる。以後、丁寧にポイントを流すが反応なし。いやな予感がする。

 釣り遡っていくにしたがい、次第にゴーロは急となる。ふと上を見上げると、天井から水が落ちてくる。
 「何だこれは」
 ド肝を抜かれたように、しばし立ちつくす。

 滝なのかゴーロの連続なのか区別のつかないような大連バク帯が、数条の滝となって頭上から落下しているのだ。

 大岩を登って左岩から覗くと、絶好の釜が見える。岩に隠れて第一投。好ポイントにしては型が小さい。第二投め。今度は竿を通して強いアタリが伝わってきた。次の瞬間にはジャングルの中空を舞い、苔岩の間でバタつくイワナ。手でしっかりと握ると、目と目があった。渓の王者にふさわしい不敵な面構え。

 連瀑をこえて 2日目

 二又下流右岸オイの沢周辺部には、ブナ林の他、ミズナラ、ヒバ、サワグルミ、イタヤカエデ、キブシ、淡紅色の花をつけたタニウツギ等、豊富な樹種がさわやかな朝を演出してくれる。

 8時50分。
 期待を胸に出発。昨日納竿した巨岩滝まで20分。左岸を簡単に巻けると思ったが、さらに巨岩の急ゴーロ連バク帯が続いている。巻き終えて下流を覗くと、その勾配のきつさに改めて驚かされる。およそ45mにも達する落差を越えてきたことになるのだ。

 巨岩の累積した階段と大釜が連続し、一見好ポイントのように見える。が、アタリは遠く、たまに鈎がかりしても小型がほとんどである。
 ゴーロ連バク帯といっても、水量、岩の大きさとも他の渓流とは桁違いのスケールで、両岸の斜面はきりたち、緩斜面を好むブナは少なくミズナラ、ヒバの巨木が主体である。白神山地と同一規模の原生林が残されている意味が、遡行するにつれてわかったような気がする。こんなところを伐採したところで、杉など育つはずがない。秋田県の中でも、ここだけは永遠に残るのではないだろうか。

 二条10m滝。右岸上部には10mにも達する巨岩が横たわり、灰白色の岩肌を隠すように緑に包まれている。右岸のガレ場を直登し、木をたよりに横にトラバース。巻き終えれば、今度こそ穏やかな渓が広がっているはずだ。

 しかし、滝頭に立って仰天。見渡す限り全て白泡の世界。思わず、絶句。こんなにスケールの大きい連続滝は見たことが無い。視覚に入るもの全てが、幾条もの滝になっている光景はまさにド迫力。初めて訪れた人を戦慄させるのに充分だ。

 地獄谷でみた幻影

 左岸の山を見上げると黒いゴツゴツした岩肌が剥き出しになり、岩頭にはヒバの大木が林立している。まるで中国の秘境を描いた山水画の世界だ。かつて、先人達がこの世界に入り込み、架空の生物が飛びかう幻を見たのであろう、沢の名称に天狗や龍が登場している。

 最後の二条15m滝を巻くとやっと緩斜面となる。なんと100mにも達するこの連続滝は、マンダノ沢最大の難所である。さらに5段45m滝。下段の滝壷で8寸級のイワナがひさびさにヒット。こんなに厳しい環境の渓谷にもイワナは棲みついている。

 地図上で二又から蛇体淵まで、単純に計算しても1/4の勾配があり、生物が棲むそれを遥かに越えている。いかにマタギが放流したとはいえ、環境に順応しなければ棲息できない。雪代や大雨のときは地獄のような世界に一変し、天狗や龍のように空を飛ぶものならいざ知らず、水の中を生活環境とするのは不可能なはずである。

 ここは岩魚谷ではなく、生物にとっては地獄谷なのだ。

 マンダ……マンダ

 左岸を大きく巻くと、またもや急階段のゴーロ帯。いいかげんにしてくれといいたくなるほど同じ様な渓相が続く。ようやく穏やかになり、魚が見えたと思えばまた高巻き。どこまで遡ればまともに釣りが出来るのか、かいもく見当がつかない。そうか、マンダノ沢とは
 「瀬はマンダ、マンダ」
 とくり返したところからきたのに違いない。
 などと、自分を励ましながら遡行を続ける。
 しばらく進むと流木が堰堤のように川をせき止め、自然のダムとなっているところに出会う。流木に足を駆けて越えると、急に開けたザラ瀬が目に飛びこんできた。地獄から天国へきたような気分である。

 左岸の壁は自然の護岸になっており、労せずに先へ。渓が急に右へ折れ曲がると大淵が現われる。蛇体淵だ。わずか1m余りの隙間を蛇のように折れ曲がって落ちている。右岸からは細流の魚止めの沢が入り込み、その左手にキャンプした跡があった。イワナには落胆させられたが、秋田にも魚をよせつけない渓谷があることを体感して納竿。

 命の灯を囲む

 およそ2時間弱でテン場へ。八龍沢組は釣れているらしくまだ帰っていない。
 あたりがセピア色に染まり始めた5時40分。
 いつもの会長の笛がブナの樹間に響く。我々マンダノ沢組は釣れなかったため意気消沈。
 が、その弱気をふき飛ばすかのような元気な笑顔で、八龍沢組一行が帰ってきた。

 狭い渓はすっかり暗くなり、星がキラキラと瞬き始める。焚火の回りにいくつかのイワナが並べられ、風と共に舞い上がった薬味(灰)がほどよくまとわりつく。焚火の幻想的な灯の下、それぞれの想いを胸に酒を汲み交す。

 口にこそ出さないが、皆、明日の釣果について考えているようだ。風は上流から下流へとふき抜けて行く。川虫達もそろそろ羽化し、水面に輝くわずかな星の明かりと風の方向を頼りに、産卵に向かうことだろう。

 きしむ体にムチ打って 3日目

 二又で合流するゴーロ滝の音で目を覚す。マンダノ沢で痛めつけられた体はかなか目覚めてくれない。テントから無理失理顔をだすと、ブナの隙間からさし込む光がまぶしい。今日も快晴である。

 私と会長は八龍沢をめざす。
 八龍沢は、しばらく穏やかなゴーロが続く。先を急ぐあまり、会長がツボへすっぼりとはまってしまう。あまりいい湯かげんではなさそうだ。
 200m程で大岩と流木が点在する2段15m滝に出合う。ここは左岸にある流木の橋を使って直登。滝の上から竿をだすが、アタリなし。
 赤い岩盤を越えると2段20m滝。両岸はきりたっているので、巻かざるを得ない。きしむ体にムチ打って、必死になって会長の後をついていく。途中、なにげなくふりかえると滝は遥か彼方に。下流にはさっきの赤い岩盤も見える。

 ようやく横にトラバース。前方に下側からは見えなかったは15m滝が登場し、二つの滝を越えるための大高巻きであったことをはじめて理解する。実際には30分で巻き終えたが、1時間か2時間は登ったような手応えだ。

 八龍沢に納得

 しばらく休憩した後、戦闘開始。ポイントに投入するとすぐにゴツゴツというアタリ。だが久しくアタリから遠のいていたせいか、9寸級のイワナが水面に顔を出したところであっさりとバレてしまう。無念!心を無にして再度挑戦。ようやく8寸級のイワナを2尾手中にしたところで、今度は7m滝が立ちふさがる。

 左岸に捨てザイルがあり、慎重に巻きはじめる。ガレ場を下って巻き終えればまもなく5m滝。ここは左岸をへツッテ直登。
 竿をだしたりしまったりの連続で、忙しい遡行が続く。一向に楽をさせてくれない所だけはマンダノ沢と一緒である。

 12時。
 豆蒔沢に到着。この枝沢は、水量は豊富だがすぐに2段43mとなる。昨日釣り上げられてしまったためか、イワナは不在であった。
 6m滝を直登すると、今度は廊下状ゴルジュとなる。2段8m滝の音が反響して恐ろしい音をたてている。地獄の轟音を耳にしながら右岸側を巻く。ここでこの沢の滝全てを高巻きしたことになる。
 滝は全部で八つ。八龍沢とはこのことをして称されたのだろう。

 聖域到達。めざすは魚止め

 ここから先は下流の悪渓相がウソのように緩やかとなり、イワナが次々と釣れ始める。釣り人が求めて止まない「入れ食い」の世界が続くのだ。
 時間があまりないため好ポイントのみを攻めながら遡る。会長が餌を取られたらしく、イワナの居場所を合図する。すかさず上流へ落とし込むと、狙いどおり飛びついてきた。慎重にアワセをくれ、暴れるイワナを竿で溜める。とても抜けそうにないので、ゆっくりと足元に寄せる。尺には足りなかったが、29cmのオスイワナであった。

 星空の下で渓の前方に和賀岳の稜線が見え始め、足早に魚止めをめざす。急ぐあまり9寸級のイワナを踏みそうになり、平常心を取り戻そうと努める。

 午後4時。
 4m滝を魚止めと勘違いし納竿。ここから休まずに歩いて2時間弱、テン場では他の三人がすでに宴会の準備を始めていた。

 イワナ料理をゆっくりと味わいながら酒を汲み交す。この沢での最後の晩餐である。前日まで一日八合と決めていたのに、一升も飲んでしまった。挙げ句の果ては、
 「酒たんねえ!だれがかってこえ」
 と大声を上げる始末。星の光に誘われて暗闇を舞うホタルが、迷惑そうに飛び去って行った。

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