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想い出の源流紀行L


私が初めて大深沢を訪ずれたのは、ある夏の八月初めであった。


後生掛温泉・大湯沼の底からゴボッ、ゴボッ、ガブッと
泥洲がまるで生き物のように鼓動を繰り返していた。
泥沼から放つ異様な臭いに感覚が喪失して、
泥洲の中に吸い込まれそうになった。
私は背筋にぞっとする冷たさを感じた。


湿原を越え、下るにつれて原生的な森が深くなっていった。
見下ろしても大深沢は見えず、
緩斜面に続く細道は永遠に続くかもしれないと思った。
ブナの幹は下るにつれて太くなっていく。
まるで白神山地に迷い込んできたかのようであった。

このすばらしいブナの匂いを嗅いでしまったら、
大深沢と永遠に離れられない関係になるのではないかと思った。

大湯沼から大深沢へ下る道は、地図に点線で記されているが、
下るにつれて、踏跡は笹竹に埋め尽くされ、消えていった。
いま、自らの足と眼で原生的なブナの樹海を漂泊していると、
原生林の中で発見しつつある岩魚釣りの法則みたいなものが、
かすかに見えてくるようで心が高ぶった。

未知の源流行は、重いはずのアタックザックも決して重いとは感じなかった。
重いという程余裕がなかったのかもしれない。

4キロも歩いただろうか。
暗い原生林に陽が射し込み、逆光にブナの巨木が輝いた。
苔むしたブナの巨木に、しばし足を止めた。

数百年の歳月を経ているであろうブナの巨木も、
下界の人々のにとっては、
その歳月からはとても信じられないくらい細く思われるだろう。
一抱えや二抱えもあるブナにしても、
飽食の世界でぬくぬくと生きている私にとって、信じられないことであった。

穏やかでどこまでも平和に思える夏山、
だが、この平和な山も、やがて冬を迎えると、くる日もくる日も吹雪にさらされる。
八幡平の積雪は五mにも達する。
ブナがいかに過酷な自然の圧迫をはねのけて生き続けてきたか
に平伏せざるを得なかった。

このブナは、風雪のために育っていない。
その姿に、自分の姿を重ねて、私は妙に納得させられてしまった。

永遠に続くであろうと思われた斜面を下ると、
やがて沢の音が聞こえてきた。
神経が狂うほど汗が噴き出した足を、大深沢の流れに突っ込んだ。
夏の盛りというのに、水に入れた足は氷るように冷たく、
汗がスーッと引いていくのをはっきり感じとることができた。

やっと発電所の管理道路に出る 屹立する柱状摂理の岩盤:大深沢をゆく

沢を登るにつれて、吃立する壁が威圧してくる。
私は腰まで流れにひたりながら渡渉したり、滝を直登できず、
岩に生えたわずかの草付をつかみながら高巻いたり、
濡れた苔岩に足をとられたりしながら前進した。
地図を広げ、大深沢の現在位置を確かめた後、源頭に奇妙な地名があるのに気づいた。

天狗岩。
昔から大深沢に天狗が住んでいたと長い間信じられてきた。
天狗以外入り込めない恐ろしい沢という迷信はどこからきたのであろうか。

昭和の初期、トロコ温泉や鹿の湯の奥まで入るのは容易ではなかった。
湯治客は馬を雇って山道をふけの湯まで登ったという。
そんな時代に、大深沢の源流へ入ることなど、
人間にとってとうてい無理と思われた。
それがためにあうはずもない魔物の伝説を生み、
語り継がれるうちにだんだん誇張されていった。

巨岩のビルディング:伝左衛門沢
頭上の丸い大きな岩は、通称「ダルマ岩」と呼ぶ。
大深沢中流部のゴルジュ
障子倉沢出合い付近、もうすぐ関東沢だ。

暗くじめじめした長いゴルジュ帯を抜けると、渓は一気に開けた。
だが、そこに待ち受けていたものは、荒涼としたガレ場の連続であった。
角ばった岩が足を突き刺し、照りつける日光は滝のよう降り注いでくる。
頭の中は次第に灰色から燃え尽きた灰のように、真白となっていった。
ふと、マタギはもしかしたら天狗だったのではないか、
などと訳のわからない夢想が、私の頭の中を駆け巡った。

大深沢源流は、地図に穴があく程眺めたものとは明らかに異っていた。
遡行記事や写真で見たものとも違っていた。
自らの足で、自らの眼で確かめる以外、源流を理解することはできないのだ。

二日間かかって、やっと関東沢出合に辿り着いた。
荷を下ろし、河原にどっかりと腰を下ろして思った。

大深沢は、その名が示すとおり、いかに奥が大きく、山壊が深いか、それは感動というにふさわしい思いであった。

仙北マタギの狩場は、北は八幡平・大深岳、駒ヶ岳、朝日モッコ岳、和賀岳、白岩岳の奥羽諸峰とその源流部一帯であった。

その超人的なマタギの行動範囲に、ただただ脱帽する他はなかった。
昭和の初めころ不死身の単独行者として名高い加藤文太郎を上回るものは、マタギ以外いなかったのではなかろうか。

マタギは「又鬼」とも書き、鬼の又鬼という意味があるらしい。
大深沢、堀内沢、葛根田川、和賀川源流部一帯には、
イワナがとうてい登れないような滝上全てにイワナが棲息している。
仙北マタギが放流した産物である。

又鬼は、今日のイワナ釣り師にとって、鬼ではなく神に等しい存在であると思った。
マタギがこの東北にいなかったとしたならば、
源流のイワナ釣りも存在し得なかったであろう。

三ッ又に近づくにつれて、アオモリトドマツの原生林帯へと変化していった。
私は背中から竿を出し、穏やかな渓を釣り遡って行く。
赤いナメ床の葉陰から、突然、大きな滝が見えた。
幅25mもの滝上から、長大な白い帯となって流れ落ちていた。
流れ落ちた水は、黒い岩肌に砕けて激しく飛沫を散らしている。

源流という名の魔物:大深沢源流に懸かるナイアガラの滝

近づくにつれて、視界全てが黒と白の世界となって迫ってくる。
折から降りだした大粒の雨がたちまち滝壷に吸い込まれていく。
水しぶきを浴びれば、雨が降っていなくても、
ずぶ濡れになるほどのすさまじい飛沫であった。

ナイアガラの滝頭に立つ まるでヤマメのような魚体の太さに驚く

雨と飛沫に打たれながら私は滝壷に竿を入れた。
すると雨滴が滝壷に吸い込まれていくように、目印も吸い込まれていった。
野性のイワナの鼓動が、竿を入れたとほとんど同時に伝わってきた。

ナイアガラ左の滝壷を釣る。

大粒の雨と滝のしぶきを浴びていることなど眼中になかった。
強く合わせると、ガツンという音が糸を伝わってきた。
黒い岩盤と同じ真黒のイワナであった。
反転すると、黒とは対象的に橙色に染まった腹部が見えた。

ナイアガラの滝壷で釣れた尺岩魚。独特の体色に彩られた見事な岩魚だ。

イワナを握りしめると、生命のあらん限りを尽くして上下に激しく動く。
イワナの抵抗に負けまいと、あらん限りの力を込めて鷲づかみにした。
遠のいていたはずの雨滴と飛沫が再び氷のように冷たい滝となって襲ってきた。

通称、ナイアガラの滝と呼ばれる滝は、私を冷酷、非常なもてなし方で頭上から圧服してきた。それは私にとって、今まで経験したことのないものであった。

イワナの誘惑に負けて、そんなことには眼もくれず、イワナを釣り続けた。
不思議なことに、この滝壷はイワナを釣っても釣っても際限なく釣れてくる。
イワナが滝壷の底から湧いてくるような気がして、だんだん気味が悪くなった。

次第に雨はシャワーとなって降り注ぎ、
山の崩れるような音とともに、雷が轟音となってとどろき始めた。
私はたまらず竿をたたみ、濡れた岩に座り込んで、滝の岩肌を眺めた。

得体の知れない怪獣が濡れた黒い岩にかみついている。
ナメ滝の中央には二王像がにらみつけてくる。
白い布を被った鬼達が、ピカッと光る雷とともに襲ってくるような気がした。

雷がそれ程恐ろしいと思ったことはなかったが、
人間の入り込む余地のない魔物の滝下で稲妻を見ると、
自分の命がたちどころに奪われてしまうのではないかという不安にかられた。

死を見詰めるとはこのようなことであったかと思った。
初めての大深沢源流・ナイアガラの滝との出会いが、魔物の滝に映ってしまった。
それは、壮厳とか、壮麗とかの言葉ではとても言い表わすことができない。

私にとって、ナイアガラの滝は、源流という名の魔物に見えた。
私を惹きつけてやまない源流という名の魔物、
お前は一体何ものなんだ。何ものなんだ・・・。

標高1516m、諸桧岳山頂に立つ。
山の斜面を黄色に染めるニッコウキスゲの群落

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