想い出の源流紀行I Dream Jumbo Fishing 八久和川水系湯井俣川の大岩魚 1992年9月下旬 |
40cmあるいは50cmオーバーの大イワナを釣る確率は、 宝クジを引き当てるほどに極めて低い。 だからこそ、イワナ釣師の夢は、大イワナを釣ることではなかろうか。 ドリーム・ジャンボフィッシング!! もし、幸運にもその夢の大イワナを釣り上げることができたならば、 どんな気持ちになるのだろうか。 どんな感激をもたらすのだろうか。 |
大岩魚の夢を追い続ける男の執念 中村会長から、1枚の遡行図が届いた。 それは会発足以来何度も計画しながら、実行できずにいた八久和川水系の遡行図だった。多忙の毎日が続き、大イワナの渓・八久和川に入るほどの休みはとてもとれそうにない。今年もダメだなと諦めていた。 会発足当初は、源流の大イワナを求めて東奔西走していた。 だが、夢の大イワナを釣ることができなかった未熟さゆえに、 次第にその目的は色褪せていった。 「大イワナの夢」は、ただ見るだけに終わっていた。 ところが、太平湖に注ぐ粒様沢の大イワナ騒動以来、 忘れかけていた「大イワナの夢」が段々頭をもたげ始めた。 会長は渓に通うたびにドバミミズを持参。 そして、最終釣行は執拗なまでに八久和川に拘っていた。 それは明らかに「大イワナの夢」を追い続ける男の執念であった。 会長は60歳近くになんなんとするのに、年を重ねるほどに不思議なほどに心が若くなっていく。私は年を重ねるたびに挑戦する気概が少しづつ減り、どちらかというと諦めが先行するようになった。会長の無邪気な姿を見ていると、これではいけないといつも反省させられてしまう。 夢はついえたかに思えたが・・・ 我々は、会長の大イワナへの挑戦に対する執念にほだされて、何度も頭を下げながら4日間の休みを工面し、八久和川に向かった。 だが、台風19号の影響で天気は最悪。大雨、洪水、雷、強風注意報が出されていた。八久和川に着く頃には、次第に雨も強くなった。これでは八久和川本流の遡行は困難。無理をすれば命取りになりかねない。止む無く湯井俣川に変更。 この時点で「大イワナの夢」は、はかなく消えていたはずだった。 八久和ダムに車を止め、雨の中を歩いた。 せっかくここまで来て、八久和川を諦めざるを得なかった無念さから、足取りも重い。林道跡は幅も広く、オリト沢との合流点近くまである。よく踏まれた林道跡を歩いていると、大イワナどころか尺イワナの気配さえ次第に薄れるようだった。 踏み跡両脇には、秋の味覚、アケビやヤマブドウが鈴なりになっていた。食べて下さいと言わんばかりに、紫色に染まったアケビの口は割れていた。幼い頃、胸躍らせて食べた思い出を噛み締めながら食べた。なんとも言えない甘い味だ。 林道終点から踏み跡を辿って湯井俣川に下る。標高差およそ70m。ブナやナラの森の中、踏み跡は登山道のようによく踏まれた道だった。山菜採りやイワナ釣りの人達がかなり入っていることは間違いない。7.2キロ地点二又まで4時間弱。山菜採りをせずに真っすぐに歩けば、3時間で十分たどり着く距離だ。 釣り人が残したゴミの残骸にガックリ 二又右岸のキャンプ跡地は、シートの残骸やゴミが散乱。ヤブの中には、缶ジュース、ガスボンベ、使い残しの調味料、缶詰などゴミだらけ。 釣り人の多さもさることながら、マナーの悪さにガッカリ。イワナではなくイワシの缶詰も転がっている。どこへ行っても、イワシやサンマ、サバなどの空缶が置き去りにされているが、これはどうしたことか。 会長があるイワナ釣り師と釣行した時のことを話してくれた。 その釣り師は、やはり海の魚の缶詰を持参していた。 山で食べる食料は全部背負って山に入り、釣ったイワナは全てキープ、さらにイワナは一切食べずに持ち帰ったという。会長はその釣り師に向かって言った。 「イワナは下界で食べるものではなく、山で食べるものだ。おいしく食べてこそ、イワナも浄仏する。腐らしたイワナを持って帰ってどうするんだ!」 こんなマナーもないイワナ釣り師たちは、ここ湯井俣川にも多いようだ。 夢はおろか、厳しい現実にガックリ 午後1時、やっと雨も止んだ。夜のオカズを釣りに出掛ける。F1下流部で白く輝く28cmのイワナ。まずは良型に満足。 F1の壷は2つある。下流の壷は巨大だがアタリはなかった。 会長がツルツルの花崗岩の壁をきわどくへツリながら上部の滝壷に接近。ドバミミズを付けて粘り、やっと25cmをあげた。 F1の滝は3mしかないが、壁は長く壷も深い。直登は無理だ。切り立つ左岸の壁を奉じ登り、きわどく巻く。谷は圧縮され、延々とゴルジュ帯が続いていた。 両岸に吃立する壁は、雨に濡れて異様に黒く輝いている。 花崗岩の節理は皆、落ちて下さいと言わんばかりに、下の方向に向いている。4〜5m上の草木は増水で全てなぎ倒されている。もちろん岩には苔一つ生えていない。水位変動の激しさを物語っていた。 けれども、ゴルジュ帯の滝は全て3m以下、狭い谷に大雨が降れば、魚止めの滝まで一直線になるほど簡単に増水するからこそ、ダム湖からの遡上イワナも奥深く遡っていくことができるのである。 F2はS字状に曲がった深い壷はあるがアタリなし。右岸を巻くと再びゴルジュ帯。壷は沢山あるがアタリは全くない。 まもなく3mのF3の滝。落下する滝は極度に圧縮され、まるで蛇の体のように巨大な滝壷に吸い込まれている。いかにも大イワナの匂いのする滝壷だが、アタリなし。 F1からF3までのゴルジュ帯は、イワナが棲むには厳しすぎる。イワナがいたとしても、一度釣られてしまえばそれで終わりといった渓相だ。砂地には無数に釣り人の歩いた足跡が残っている。これでは期待する方が無理というもの。ここで納竿。キープしたのは、わずかに2匹のみ。 下る途中、左岸から流入するセンノ木沢に入ってみる。アタリはあるが赤ちゃんイワナばかり。すぐに6m滝の壷があるが、ここでも釣れてきたのは赤ちゃんイワナ。徹底して釣られているようだ。 テント場に着くとオリト沢組は既に帰っていたが、キープしたのは8寸のイワナ1匹のみ。合計3匹。5人で食べる分にも満たない貧果にガックリ。いやな予感が的中してしまった。雨は次第に強くなり、時折強い風がテント場を襲った。 この時、40cmオーバーの大イワナが釣れるとは誰一人思っていなかった。 夢の大イワナ 雨音で目が覚めた。 昨夜からの雨で渓は増水、流れは茶色に濁っていた。F3上部まで一気に歩き、その上部から釣ろうという意見が大勢を占めた。昨日の探検の結果からして、下流部は明らかに期待できない。だが、会長は下流から釣ると言ってきかない。この男の執念が思わぬドラマを生んだといっていい。 そのドラマは、すぐにやってきた。 テント場からわずか数十mの距離、S字状に曲がりくねった広い河原、そのカーブした所に、ちょっとした淵がある。流れは増水で茶褐色に濁っていた。 大イワナ用に準備してきたドバミミズは使わず、単なるミミズの1匹掛け。会長は、そこに大イワナがいるとは露ほどにも思っていなかった。 落ち込みの右側が渦巻いているポイントに投入すると、さもないアタリ。 『おっ、良型のイワナか!?』 竿を上げようとすると、異常に重い。 『おっ、これは少々デカイな。尺上か』 大イワナが逃げ込むような穴はない。 大イワナが逆襲するには下流に走るしかない。流れの中心に引き込み、大イワナを水面上に上げることなく下流へ誘導した。この下流誘導作戦と大イワナの逆襲行動は、ピタリと一致した。 だからこそ、大イワナの手応えは感じなかった。濁った流れの中の大イワナは見えない。彼は、夢の大イワナが鈎掛かりしていることに未だ気づいていなかった。 ミオ筋から岸に誘導したその瞬間、巨大な魚体が目に飛び込んできた。 『おっ、デカイ!』 余りの大きさに、仰天。 『逃げられる!』 真っ先に頭に浮かんだのは、夢が現実になった時の不安だった。それは今まで体験したことのない大物であるからこそ抱く、ごく自然な感情であった。 瞬間に考えたことは、とにかくヤツを水面上に無理やり浮かしたのでは、暴れられる。 そうなれば通し仕掛けではない0.8号の短いハリスは切られてしまう。 大物を釣るには、相手に逆らわないことが基本だ。 彼は、無意識に岸に向かって連続の動作を続けた。ヤツは自分の泳ぐ方向を疑うふうもなく、砂地の河原に向かって近づいてきた。 水面から顔を出した瞬間、ヤツは猛烈に暴れだした。 大イワナは、有らん限りの力を振り絞って上下にバウンドを繰り返した。会長は、大イワナに負けじと必死になって、砂地を3m程引き釣り込んだ。竿を放り投げて、素早く、それこそ素早く大イワナに抱き着いた。 この無駄のない一連の動作は、もって生まれた彼独特の「野性の勘」がいかんなく発揮された結果でもあった。 すぐに、腰に下げていたカラビナをロに掛けた。 ついに出会えた。 夢にまで見た大イワナ。 両手で握り締めると、大イワナは凄い力で左右に動いた。野性の迫力、それに加えて雨が頭上から降り注いでいた。心も体も震えた。 その震えは止まるどころか益々激しくなった。 夢を追い続けてきた男は、この瞬間、遂に夢を釣ったのだ。 「これは嘘じゃねぇ、夢じゃねぇぞ!!」 ドリーム・ジャンボ・フィッシング! 彼は思わず叫んだ。 「おうい!おうい!」 だが、竿を背負ったまま先行して行った仲間には聞こえない。息を大きく吸い込み、有らん限りの力を振り絞って笛を吹いた。 「ピー、ピー、ピー!」 その凄まじい笛の音は花崗岩の壁に木霊し、全員の耳に響き渡った。その異様な笛の音に、仲間が下流に下った。 全員がその大イワナを見て驚いた。写真では何度も見たことのある大イワナ。さして驚くこともないと思うかもしれない。だが、現実に見るとその「ド迫力」に全員が圧倒された。 「これは嘘じゃねぇ、夢じゃねぇぞ!!」 計測すると、47cm。全体が茶色っぽい魚体、斑点は鮮やかな燈色だ。下唇は大きく曲がり、オスらしい精悍な面構え。 ラッキーと言えばそれまでだが、その夢をひたすら追い続けてきたからこそ、この感動のドラマも生まれたのだ。 会長が全員に向かって言った。 「この大イワナは全員で釣り上げたものだ」 その言葉に、全員がこの大イワナを釣ったように興奮した。 夢を釣った男は、まるで夢の世界にいるような無邪気な顔をしながら 「ここで釣れたんだ。ここで!」 と何度も指さしながら踊った。 ゴルジュ帯を抜けると、そこは岩魚の桃源郷 イワナの空白地帯が続くゴルジュ帯。その狭く険しい谷を、高巻きをしたり、ヘツッたりしながら遡行を続けた。三番目の滝を越えると谷は一気に開け、穏やかな河原となった。 雨はまだ降り続いていた。流れは増水で速い。 オモリを4Bに切り替え、竿一杯の仕掛けにドバミミズを付けて、白泡の瀬に投げ込む。ほとんどは8寸以上の良型ばかり。緑白色に輝く美しい姿態に全員が喜悦した。 これぞ、入れ食いの世界。 中途半端なりリースサイズは全く釣れなかった。これも雨のお陰であろうか。 深い原生林に覆われた谷。力強く流れる清例な流れ、その流れの中心から尺級イワナが飛び出す。降っている雨を忘れるほどだった。 だが、この桃源郷の世界はそう長くは続かなかった。 滝の叫音が聞こえた。谷は極端に圧縮され、暗い。両岸が吃立する壁の中を一条の滝となって落下する6m滝。 魚止めの滝だ。 滝壷は深く大きい。大イワナの匂いが、飛び散る飛沫とともに漂っていた。だが、意に反し、アタリはなかった。どこを見ても、簡単に巻けそうにない。左岸の山を大きく巻く以外になさそうだ。谷全体が近づく釣り人を拒否するかのような滝。これでは「魚止めの滝」どころか、「イワナ釣り師止めの滝」と呼びたいくらいだ。この滝上にも行って見たかったが、釣果も十分。あっさり遡行を断念。 秋の恵みキノコ まだ昼を過ぎたばかり、地図に記された「白糸滝」を見たい。右岸から流入する白糸滝沢に入った。すぐに4m滝、この滝壷で28cmのイワナが釣れた。以降、この滝上に魚影、魚 信はなく、この4m滝が魚止めの滝だった。 この滝の左側は緩やかな斜面になっている。 その草場でK氏がキノコを見つけた。「これ、サワモタシじゃないか」。草の下を見ると、びっしりサワモタシが生えていた。まだ小さいが、ナメコのように瑞々しいキノコだ。何事も旺盛な好奇心が新たなドラマを生む。 谷は狭く、階段状の釜が続く。その堅い花崗岩に無数のダイモンジソウの花が咲き乱れている。15分ほど歩くと、右側から落下する白糸滝が見えた。滝の壁は小さいV字型に削られている。その底を滑るように流れ落ちている。今は水量が多いが、渇水時はそれこそ糸を引くような細い流れになるのだろう。 秋の恵み・キノコと良型のイワナを背負って我々はゴルジュ帯を抜け、オリト沢合流点のテン場に着いた。大イワナと尺イワナを並べてみたが、尺イワナのなんと小さいことか。尺イワナだけ眺めていれば、確かに大きい。だが47cmの大イワナに比べれば、親と子ほどの違いがある。今更ながら、その大きさに驚いた。 会長は、早速、大イワナの刺し身に挑戦。 頭をつかみ、皮を口に食わえた。皮は厚く、いつものように簡単には剥がれない。二人がかりで皮を剥いだ。この1匹で5人分の刺し身は十分だった。 秋の谷の夜は早い。真っ暗な源流で焚き火は明々と燃えた。ガスランタンも負けじと輝いた。大イワナの刺し身に舌つづみを打ちながら、ホットウイスキーを飲む。キノコの煮付け、キノコ汁もこの上なく旨い。 晩秋の谷の夜は寒い。気温は8度。すっかり酔っ払い、シュラフに潜り込む。酔っても酔っても、自分がまるで大イワナを釣ったように興奮していた。心の中で何度も破いた。 「これは嘘じゃねぇ、夢じゃねぇぞ」 朝日連峰は、花崗岩からなる深い渓谷。その深い谷底にフワフワと舞い降り、やがて静かに沈んでいった。 籠一杯のマイタケと大イワナ 6時、寒さで夢から覚めた。 朝食前に、私はオリト沢に入った。谷全体が異様に暗い。好ポイントの連続する釜が続いていたが、ドバミミズに食いつくのは、赤ちゃんイワナばかり。食うというよりも、その巨大なドバミミズを食うこともできず、ただぶら下がっているだけだった。 背後から忍び寄る音にギョッとした。 振り向くと、迷彩色のザックを背負った2人組だった。 「地元の人だが、本流は釣らないんだか」 「なんも、おらイワナ釣りに来たんでねぇ。 これからマイタケ採りに行くところだ」 大きなドバミミズを眺めて一言。 「そんな大きな餌だば、はばけるでゃ」 決定的な言葉に、さらにガックリ。 「ここで朝飯にするから存分釣ったらええ」 と言われたものの、既に戦意喪失。 私は暗い谷を力なく下った。まもなく、小柄な体に自分より大きな篭を背負ったおじさんが、もくもくと歩いて来た。 「キノコ採りですか?」 ニヤリと笑い、「ん。キノコ」と言ったきり快適に歩いて行く。長い距離を休まず歩いてきたにもかかわらず、やけに元気に歩き、あっと言う間に暗い谷に消えていった。 そして僅か2時間後。大きな籠に一杯のマイタケを背中に背負って過ぎ去った。寡黙な杣人は一言もしゃべらず、ただニコリと笑って急斜面を登って行った。 背負い切れないほどのマイタケと大イワナ。 「これは嘘じゃねぇ、夢じゃねぇぞ」 |